薄明かりが落ちている室内は相変わらず楽しそうに騒ぎ続けている。サッチは煙草を吹かし続けながら、それにしても、と呟いた。二人のいる場所は店の隅の換気扇の下である。室内は禁煙などというやぼなことはなく、各テーブルで客達が楽しそうに煙草を吹かしている。若干煙いきらいはあるけれど、だがその空気がどこか懐かしい。
「それにしてもなんだよい」
「この“海を思う会”?誰の主催なんだ」
「あぁ、知らないのも無理はねぇよな」
主催っていうか、声を上げたのはクローバー博士だよい。ラムの瓶で指す先をみると、髪の毛をまるでクローバーのような形にした男がたくさんの男たちの前でいろいろ話をしている。その中にエースとヨーキという男も混ざっているようだ。楽しそうに笑っちゃってまぁ。
「でも俺が来たのは間違いだったかな」
「?」
「俺にはこいつらと共有すべき記憶がない」
「なくとも、ここの酒は美味いからいいだろ」
まぁそうだけど、な。苦笑しながらワインを飲む。スペイン産のワインは独特の風味をもっていて、それの味が思いの他口にあったので、今度仕入れてみようかな、と思考の隅で考えた。そんなサッチをよそにマルコはラムを飲み続ける。独特の臭いがただよってきて、小さく眉をしかめてしまう。
その様子に気付いたのか、マルコはラムの瓶から口を離してこちらの様子を伺ってくる。どうした、と声がかかってその声の方に首をまげると、意外に近いところに南国頭があって目を見開く。お前、ラムの臭い苦手だっけかと言われて首をかしげた。
「つーかそれ六十度あるだろ、俺そこまで強いのって飲める気がしねぇよ」
「あ、あぁ…そうか…」
自分の発言は何かおかしかっただろうか。しかし自分の発言に自分で違和感を覚えてしまって胸中が酷くうずく。このざわざわしているのはやはり記憶のせいなのか。ということは、今まで見てきていた海の夢は全てその記憶に繋がっているのだろうか。俺は。
「…俺は、っていうか、俺も…海に…」
「?」
あぁ、今、ものすごくマルコの顔を見たくない。ここにいたくない。何ヶ月も前から誘いの夢を見ているんだ、と悟ってしまった。いつだったかあの髭がやたら立派に伸びた男がサッチに言っていた。海の夢は海を誘う、そして遠くの思い出を呼び寄せるのさ。
俺は何か大切な事を忘れている。思い出さなければならないのだと、頭の中で警鐘が鳴っている。考えすぎて頭が痛くなってくる。誘いを気のせいだと片付けていたあの頃に帰りたいと切実に思う。とりあえずこの状況から逃げたい。そう考えたサッチはマルコに呟くように言った。
「…いや、俺帰るわ」
「え、おいっ」
「エースが居るから話してやってくれ」
少し慌てた様子のマルコを置いて店の出口へ歩いていく。栗頭の男がもう帰るのか兄ちゃん、と声をかけてくるのに苦笑してワインの瓶を置きつつ世話になったと言った。出口から地上に上がる階段の踊り場で足をとめる。酷く気分がわるかった。脳だけが暑く火照っている気がして頭に手をあてて、小さく舌打ちをする。
「おい、おいサッチ…!」
後から追ってきたマルコの腕を振り払ってサッチは段下にいるマルコを見下ろした。青い目が真っ直ぐにこちらを見上げてきている。おかしい。サッチの頭の中は思考がぐるぐると回っていて、酔っているわけでもないのに視界が赤い。
「サッチ…?」
「俺さ、マルコ」
しばらくお前に会いたくねぇよ。そう言い放つと呆然とするマルコをそのままに、店へと逃げるように歩いていった。店の付近になると、アーケードになるはずだったのだろう、魚の模様が刻印された柱が道の両側に立っている。そのうちの一本に片手をついて小さく咽る。吐きそうだったけれど、こんなところで嘔吐なんて格好悪いにも程があるので意地でも耐えた。
ようやく店の裏口に止めてある車の所にまで歩いていった。気分は地面を這っているようなそれで、ようやっと車のドアの取っ手にたどり着いたときにはほっとしたものだ。心臓がばくばくと鳴っていて、しかし息が上がった様子もない。車に乗ったところでしまった酒を飲んだんだった、と自分の行動を呪う。
車の扉を開けて降り、頭を抑えながら裏道をアパートの方向へ歩き出そうとした瞬間である。肩を叩かれ振り返った瞬間に唇にふれたものがあった。頭の裏で何がおきた、とやけに冷静になろうと努める自分がいるのだが、大半がパニックになっている。
首の後ろまで回っている腕がぎゅう、と盆の窪を押してくる。ラムの味が口の中に充満した。視界いっぱいに映るのは目を閉じたマルコの顔。睫毛なげぇなこいつ、と冷静に観察している己は阿呆なのだろうか。というかこの状態はどういうことだ。
驚きのあまり固まっていた舌に触れていたそれは、さんざんこちらの中を堪能したあとに離れた。呆然とするあまり棒立ちになっているサッチの前でマルコは肩を竦めた。殴ってくれても構わない、小さく溢された声にどう対応しろというのだ。
夜空には月などでていない。暗闇を切り取るのは朧げについたり消えたりする電灯だけである。二人以外に道に人はおらず、ただチェロの深いメロディが流れ続けている。沈黙が二人の間、約三十センチにおちる。
「…どうしろっつんだ…」
「すまねぇ」
視線を地面に落としてマルコは尚も言い募る。すまねぇ、すまねぇと同じ事を繰り返す機械のようだ。それに苛々して自分の車のボンネットを掌で叩いた。俺とお前はまだ会ったばかりだろ。そればかりが頭を占める。なぜお前はそこまで俺に構うんだ、と口を開きかけたところでサッチは思いとどまる。
そう、会ったばかりなんだ。だからこんな事で怒鳴っていい間柄ですらない。サッチはマルコに背を向けて歩きさった。
[5回]
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