蝉の鳴く声が木々から雨の様に降ってくる。昔の人はこういう状態を蝉時雨とは上手く言ったものだとしみじみ思う。暑い日差しが照りつける中、サッチは海沿いを走る高速道路の下の砂浜にいた。いつだったかエースが海が良く見えるレストランの駐車場で海を見ながら両手を広げていた事を思い出して、ふと自分も海を見たくなったのである。
都市部から車を飛ばして三十分もしないうちに目的の場所が見えて、近くの二十四時間の駐車場にマーチを止めて外にでた。こんなくそ暑い日に何も外に出る必要などなかったのだが、思い立ったらいてもたってもいられずにここまで出てきていたのだ。人間何か思い立つと潔いものである。
携帯灰皿と煙草、マッチと財布にペットボトルの水、それに携帯電話。持ってきたのはこれだけだ。携帯電話はメールするためでもなんでもなく、ただ音楽を聴くためだけだった。だからイヤホンを差して音楽をしゃかしゃかと聴いている。邦楽でもいい曲はあるけれど、どうしてもサッチは海外の音楽の方が身に染みている。
今日のお気に入りはニッケル、それにパウターや他に名も知らぬアーティストのそれ。高速道路の下は轟々と走る車の音を響かせて、しかし海はまるで何もなかったようなしずけさが広がっていた。寄せては返す波を見つめながらサッチは砂地に腰を下ろして煙草をつける。遠くで子供達が砂浜をきゃあきゃあと笑いながら走り回っているのが見えた。
煙草の煙は海風に攫われて瞬時に形をくずす。空はどこまでも遠くまで青く広がり、その中を夏独特の積乱雲が雄大にのさばっている。エースはあの時言っていた、人間誰もが海の子だと。その言葉は深く心に刻まれていた。何気ない言葉だったにも関わらず、だ。
俺も海の子なのだろうか。どうでもいいが、湖をうみと考えてうみのこという名前を冠した船がどこかの湖水地域にあったなと思考の片隅を掠める。ほんとにどうでもいいな、とくだらなくてくすくす笑いながら煙草をふかす。
ここのところ海の夢をあまり見なくなった。代わりに、暗い空間の中で小さく光る青い炎の夢をよく見るようになった。青い炎は、あまりに遠くにあるのか、手を伸ばしてもまったく届かずにがっかりするのだ。青い炎はこちらをずっと待っているのだと夢の中では何故か知っていて、自分がはやくそこへいかなければならないというのも判っているのだ。ずっと焦り続けている。
だからいつも、夢を見たあとは思ったよりも身体が休めていなくて苛々することが多い。他にもいろいろな夢を見るというのにあの夢だけはかならず同じだ。あれを見るときはかならず己が知らない他人がこちらを知っているような風情で話しかけてくるときだ。いつだったか道の真ん中で肩を叩かれて振り向いた瞬間に泣き崩れられた事があった。それが女であれば痴話喧嘩か何かだと周りも思うだろうが、残念ながら相手は自分と同じかすこし下かくらいのおっさんだった。
「え…」
「いや、何でもないんだ。ただ、アンタがそうやって今を生きているなら」
その泣き崩れた男は涙を拭いて恥かしそうに俯きながら笑い、サッチの前を去った。全く事情がわからない側からするとゲリラ的な何かとしか考えられず、思わずドッキリか何かかと思って周囲を見回したのだが、残念ながら奇異なものを見つめる視線しかなかった。
俺は何かを忘れているのか、とは以前から考え続けてきた事だ。まるで大切な時間、そう、一年か二年かそこらの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったとか、そういったものであればその時間の間に会った人なのだろうと思う。しかし何度も過去を振り返ってみるものの、記憶が欠落している場所などみつからないのである。
海はかわらず漣をよせては返してくる。
と、地面が揺れるかというような音を耳にした。
「こんなところで何をしている小僧」
いい年のおっさんを捕まえて小僧などと言う物好きはどこの誰だよと振り返ると、大きな男が立っていた。みあげるような、という言葉が正に当てはまるのではないかという大きさである。ギネス更新とか余裕じゃね、と頭を過ぎったのは秘密である。
「海はいいなぁと思って」
やっとのことで返した返事はまるでその辺を友達と歩いている少年みたいな陳腐な内容で思わず自分にうんざりしながら、煙草を咥えたままだったことを思い出して携帯灰皿に突っ込んだ。ついで耳からイヤホンをはずしてその大男を見上げる。
「海か…しかしここの海はどこもいけねぇな」
「…?」
「人の手が入りすぎちまっているだろ」
大男はグラララと笑いながらサッチの横にどすどすと歩いてきて腰を下ろす。おい小僧っ子、お前の店に行こうとしたら開いていなかったぞ、と男は言う。行くも何も、今日は定休日だと返事を返しかけて思い出した。この男、どこかで見たことがあると思った。
「…大企業の社長がこんなとこで何してんですか」
「俺だって海をみてぇと思うことがあるのさ」
男は大きな髭をゆびでぴん、と跳ねさせながら片手に持っていた瓶をぐい、と傾ける。みればそれは高級そうなラムである。60度もあるそれをストレートで飲むようなジャンキーだったのかこのおっさん、とサッチは半ば呆れるように見上げる。
「…で、あんたは海を見にわざわざこんなとこまで」
「おめぇに合いたかったってのもあらぁな」
え、何、俺このおっさんと知り合いだっけかいやいやそんな記憶どっこにもないぞ、ん、もしかして幼稚園とかそういった時代に会ったことあんのかね。頭の中を疑問が走り抜けていく。隣の酒臭い老年の男はふたたびぐらららと笑って、おめぇマルコを知っているだろう、と言った。
「そいつがなぁ、おめぇの作る飯はうめぇうめぇって言うもんだからな」
「…そんなこたないですよ」
だいたい食わせてやったって言っても、この間にエースにほとんど食われた炒飯しか記憶に無い。あれを一口食っただけでそんなに褒められるいわれはない。まずその前に、大前提に、だ。
「…マルコはアンタの側近ですか」
「あいつぁまだ言ってなかったのか」
口元をにぃ、と吊り上げた男はもういちどぐいと酒を呷ってから小さくげっぷをする。あいつぁ俺の店の番頭だ、と言ってぐららと笑う。言うに事欠いて番頭て。あんな大企業つかまえて店て。つっこみたいことは山程あるが、サッチも釣られて笑った。
「アイツはいい奴ですね、髪型こそ特徴がありすぎますが」
「俺が息子と決めた奴にロクでもねぇ奴はいねぇよ」
息子。大きく心臓が波打った気がした。その言葉は酷く柔らかく、優しくサッチの心を刺して尚且つ染み込んだ。余りに衝撃が大きくてそれを誤魔化すために海を見つめている振りをしたが、サッチの全神経は隣に座る大男に向いていた。
この男、何者だ。
いや、何者もくそも、大企業の社長だが。
[3回]
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