その屋敷には女主人と執事が一人、そして数人の使用人が暮らしていた。
屋敷のある敷地はほとんどが木々に覆われる森となっていて、屋敷の前に僅かに芝生のはえた場所が横たわっている。その芝生のところに小さなテーブルと椅子。どちらも白く塗られていて、色あせた様子もないところから庭に置かれているそれですら大切に扱われていることが伺えた。
屋敷の玄関扉が開いて、一人の女性が出てくる。鬱蒼と茂る木々の隙間から見える空を仰いで小さく欠伸をしながら伸びをする。そしてそのまま白いテーブルセットのところまで歩いていくとチェアに腰掛ける。すると、まるで計ったかのようにして執事と見える壮年の男が姿を現した。その手には主人のお気に入りであるティーセットと朝食が乗っている。
「おはようございます、まなこ」
「ええ、おはようございますビスタ」
彼等の関係は主従のはずである。しかし彼等の間にはそれを示すはずの敬語が互いにむけて使われている。不可思議な事もあったものだ。当人達はまるで何かおかしいことでもしましたかという風体で、毎日を過ごしているのである。
ビスタが朝食をとるのを邪魔せぬ位置に立って彼女の食事を見守る。今朝の朝食はきまぐれなサッチが作ったスープと目玉焼き、トースト、そして赤くみずみずしいトマトの乗ったサラダである。トーストにバターを塗りつけたまなこはちらりとビスタを見て、おもむろに目玉焼きをトーストにのっけた。
「まなこ、好きですねぇ」
「こちらの方がおいしく食べれるのだもの」
人目があるところならビスタは注意をしていただろう。しかしこの場には彼と彼女しかいない。まなこがこうして茶目っ気をみせるのは朝食のこの瞬間だけである。とても貴重で、そして可愛らしい。軽く眉をあげて苦笑するビスタににっこりと微笑んでまなこは豪快に最初の一口をほおばった。
「おいしい」
「いくらジブリの映画がお好きといえど、毎度毎度よく飽きない」
「だって」
こうやって食べた方がおいしく感じるんだもの、と口を尖らせる彼女の口元にはトーストのかけらがくっついている。ビスタがくすくすと笑いながらその口元に手袋のはまった手を伸ばし、失礼と呟きながらカスを取った。驚きに目を見張っていたまなこはビスタの表情に釣られてくすりと笑う。
「ほら、淑女たるもの、食べかすを口につけたりはしませんよ」
「あらすみません」
鈴を転がすように笑ったまなこは食事を続ける。その顔は笑顔でいっぱいで、とてもくそでかいにも程のある屋敷の主人であるようには見えない。そう、権力争いをすべて退けて頂点に立った女には。
彼女は彼等使用人達が親父と敬愛する男が娘と呼んでいた存在。血のつながりがあるわけではないが、彼女のことを、男は深く愛し、慈しんでいた。親父が隠居生活を始める際に、どうせ周りがごたごたするだろうからお前たち、こいつを頼むと屋敷に置いていった。
彼等の忠誠は親父のものだが、彼等は娘とよばれたこの存在のことも深く愛していた。そう、彼等も息子とよばれた立場であり、まなこはかわいい妹のようなそれだったからだ。この不可思議な生活が始まってからまだ数年も経っていないことからも、まなこがここの生活にまだ完全に慣れきっていないのは明白である。
しかし、彼女は使用人であると言った彼等がおなじくあの男の息子たちであることを知っている。だからこそこうした生活に初めは反発した。私とて貴方たちと同じ。なぜ私一人がこのような生活をしなければならないのかと。ビスタを初めとした男達はからからと笑ってまなこの頭を叩きながら言ったものである。
「親父が俺たちにまかせた、それでは理由にならないか」
朝食が終われば執務の時間。まだなれない内容には屋敷中の人間が手伝ってくれている。彼等とてもとは親父の元で働いていたプロであるから、仕事は鬼よりも早くすすんだ。ただ、サッチあたりは途中で休憩と称して出て行ったきり戻ってこないこともあったが。
ビスタが手渡してくれる書類からはいつもいい香りがした。薔薇ではない、しかしきつすぎないそれは品のよさが滲み出る。そして仕事は始める際の彼の髪さばきが、まなこは大好きだった。ウェーブを描く髪を一つにまとめ、横に流す姿はとても様になるのだ。それを頬を染めながら見つめる視線にビスタは気づいた事があったろうか、否、まだない。
静かで、幸福な時間がそこには横たわっていたのである。
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