まさかの現代パロの八雲と詩織
「もうだめだ」
いつもの彼女にしてはやたら早くに音を上げた。おやおや、そんなことで大丈夫なのかな、とでも言いたげに男は振り返る。だって、と詩織は臍をかんだ。歩くのは貴方の特権、自転車は私の特権でしょう。自転車と歩く筋肉はまったく違うというのに、なぜこの目の前の男は軽々と自転車を漕いでいられるのか。もんのすっごい坂だというのに。
「あと少しだぞ詩織、」
「知っている」
「俺が負ぶってやろうか」
「いらない」
つれないね、と肩をすくめる男の背後へ精一杯の睨みを放ってよこしてやった。だが男は飄々と自転車を漕いで先にいってしまう。自分の二本ある足で自転車を押して登らねばならなかった。これがなかなかどうして自転車に乗らない足が疲れていて足をまっすぐに上げられない。初めて自転車にあまり乗ってこなかった自分の半生を恨んだ。
詩織は実は深窓のご令嬢である。それがなぜ緑の自転車などという駅前などで無料貸し出しをしているチャリに乗っているかといえばそれは単に前を走っていく男のせいであった。八雲である。
ちなみに彼らは仕事の合間にようやく取れた休暇を関東から甲信越へと旅行することで消費しようとした。これが普通のサラリーマンならばくたびれてるんだから家でごろごろさせてくださいと子供に土下座して頼みそうなものだが、そこはこの運動神経爆発の一家の主とその細君である。普段の疲れはトレーニングのようなものだと一蹴して旅行にでかけた。その体力と行動力と楽天的性質はもはや天性のものではなかろうかと一人息子はマジに心配している。
ようやっと大学生になり別段親として心配せねばならぬこともなくなったのだ、たまには家に一人お留守番もよいものだろう。にっこにっこ笑いながら二人を送り出した息子を思い出して詩織はため息をついた。
まだ目的の寺まではずいぶんとあるのだが、坂の傾斜が慣れぬ。東京といえどもアップダウンの差が激しい地域である。その程度の山ならば別に困ることもなかろうと高をくくっていたが、そういえばここは普通のところよりも空気が薄いんだった、と思いつくまでに何時間電車に揺られたことか。自分の迂闊さにおもわず笑い出したい。
「何してんの、大丈夫?」
そこまで適当に思考しながら自転車を押していたらふいに顔を覗き込まれた。夫はいくつになっても無邪気を絵に描いたような面をして笑っている。その笑顔と自由にあこがれ惹かれて自らの家を飛び出したのはもはや二十うん年前の話だ。
「別になんともない」
そういって強がるけれどすべて夫にはお見通しなのだと彼女はとうに知っていた。
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