雲海から吹き付ける潮風が心地よい。海だというのにその水は空の色を反映せ
ずに透明で、静かに漣を立てて下界から見える蒼穹を飾っている。
この雲海の上に突き出す数多の凌雲山の一つ、慶東国は堯天山。その鋭利な峰
々に沿って建つ金波宮。
初夏の空気が漂い始めているこの宮の正寝の一室に、その主はいた。
現代の人間から見ればやけに薄暗い室内で手元の灯りを頼りに書物を読んでい
る。王らしくなく、下官にも分け隔てない彼女は椅子に片膝をたてて座っていた。
緋色の髪が弱めの明かりに煌き、その横顔の美しさを引き立たせていた。
名を呼ぼうとして、口を開きかけた瞬間。
「……延王ですか」
視線は書物に落としたまま、少年のごとき少女は言う。気配を殺していたのに、
何とも敏い者よ、と延は苦笑して室内に足を向けた。
雲海の上より
硝子の窓の外から足音を消して歩んできた人物。その堂々たる体躯と人の悪い
笑みを顔いっぱいに貼り付けた隣国の王。別称、暇人。
「このような時間においでになるとは、余程火急な御用時がおありとお見受けす
るが」
「ごあいさつだな……特に用はない」
「なら何故この金波宮においでか」
ここまで言って初めて顔を上げた彼女は薄く笑う。まさか、また朱衡達からお
逃げになっているのか。雁国の王ともあろうお方が、よもやそのようなことはあ
るまい? 口から出る言葉もいつも通りに冷たい。
「……ほう、用もなく来るなと言うのか」
「いいえ別に。只、来る時間と場所を考えて頂きたいものだと思っているだけで
す」
「……そんなこと、今更いわれたところで治らぬ」
もう五百年以上コレで通しているからな。そう言ってからからと延は笑う。そ
んな己の恩人を見やって思わず陽子は溜息をもらした。
彼女が登極してからこの方、雁主従が公式な訪問をしたのは片手に数えるほど。
だが非公式なものは両手両足を使っても数人は必要だろう。
「……急ぎお部屋を用意させますので」
「その必要はない」
「…は? 」
「誤解はするな。俺は口喧しい部下にガミガミ言われているよりもここの露台で
月を眺めている方が面白いと言ったのだ」
言いながら延はまた露台に戻り、欄干に腰掛けた。
すると必然的に陽子自身が茶を入れ延を手ずからもてなさねばならない。諦め
とも呆れともつかぬ溜息をついて、女は茶を入れに立つ。
茶名は日本ではあまり聞かなかった白牡丹。六太曰く現在の崑崙では一般的に
普及している烏龍茶の一種らしい。
ことん
露台にある小さな卓――とはいっても王の所有物なので螺鈿細工が施してあり、
どうかんがえても贅沢すぎる――に茶の入った湯呑みと急須を載せた盆をおく。
「お冷えになりますよ。いくら初夏といえど、海風は身体に障る」
「酒だとなお嬉しいのだがな」
「今から女御を起こして皆を驚かせますか」
「冗談だ」
ヒラヒラと手をふりながらどこまでも泰然として笑う。そして欄干から下りて
卓上の湯飲みをとる。手慣れた仕種で茶の香りを嗅ぐ。一口飲んで…ほう、と一
声呟き、片眉を上げてこちらを見てきた。
「…なかなか良い茶だ」
「崑崙では一般的らしいですけどね」
「うちの住処の茶は香りばかりきつくてしかもまずい。コレは慶でも栽培は可能
なのだろうか」
湯飲みに残る茶に写り込んだ月を見ながら陽子は言う。ゆらゆら揺れる月は頼
り無い。まるでこちらに来たばかりの自分のようだ。
「願えば、可能でしょうね」
「ならば雁と貿易できるな」
「国庫が現在空ですしね」
苦笑いで答える。延の真似をして宝物を売り払ってしまったのだ。だから現在
あるものといえば生活必需品と儀式礼用の服くらい。だが、崑崙産のこの茶の樹
は庭園に根付いてくれた。御陰で茶には不自由しない。
そんな事を考えていた陽子の耳に、延の呟きが聞こえた。
「雁を、滅ぼしてみたいな」
「……そうですか」
聞こえていたか、と言いつつ延は茶を飲み干し、手ずから新たに注ぐ。
「私は別に、止めませんよ。泰麒捜索の際に約束いたしました通りに、雁からの
難民を保護するだけです」
「……それはありがたいな」
「ですが、これだけは言わせて下さい」
延を見る双眸が苛烈に燃え上がった。
「かつて延麒六太に、貴方が登極する前の雁国の折山と言われたほどの荒廃ぶり
を聞かされた。もし貴方が雁を折山の荒廃に晒そうとなさるなら、私は朱衡達に
貴方を殺すよう勧める」
「……ほう」
延の目が興味深げに瞬く。陽子は更に続ける。
「貴方が十二国一の剣客であるのは十分に承知だ。もしも彼等で無理ならば私が
慶と景麒を捨てて、貴方を殺すだろう」
突然、延は笑った。月は相変わらず二人を見つめている。茶を飲んで陽子は相
手が笑い止むのを待つ。延は笑い続ける。陽子は待つ。急須の中の茶は直ぐに無
くなってしまった。
延の為に出したのに自分が殆ど飲んでどうする。己に突っ込みを入れながら溜
め息も尽きながら急須を持って立ち上がろうとした。
次の瞬間、腕を掴まれて椅子にまた座らされる。ガタンと椅子が鳴った。高価
な椅子なのにな、と頭の隅で冷静に考えながら目を瞬く。延の視線は底冷えする
ほど冷たかった。
「その言葉、まさか真ではなかろうな」
「延王の行動の如何によっては真になりますが」
「ふざけるな」
黒い双眸に怒りが宿る。口調が静かであるだけに、いかに怒気含むものかが分
かる。腕を掴まれている所が痛み、意地で耐える。
「さっきお前は止めはしないと言わなかったか」
「延王が雁を更地にしようとしない限りは」
「お前は俺に雁だけでなく他国をも沈めたという責を負わせるつもりか」
「延王に梟王の二の轍を踏ませぬ為ですから、それくらいの汚名を着て貰っても
差し支えはなかろう」
すまして言う陽子を延は思わず睨めつけた。イイ性格に育っちゃってまぁ、と
目が雄弁に語っているのを見て陽子は人を喰ったような笑みを浮かべてのたまう。
「口が立つようになったのも、一重に延王の御助力の御陰ですから」
そろそろ腕から手を離して下さいませんか、二番煎じを入れて来ますので。言
われてやっと延は手を離した。陽子は悠々と室内に入って湯を急須に入れる。
萎びた葉の小山に湯が溜まってゆくのを見ながら、やはり腕力の差か、と自嘲
の笑みを浮かべる。万力で締め上げられたかのような青痣が腕に残っている。
この腕力技術経験の全てにおける歴然の差。たとえ陽子が大罪を犯して延を倒
しに行っても、万に一つも勝機はないことは火を見るより明かだ。
露台に戻ると、延は月を睨むように見上げていた。その様はまるで、狼。一瞬
見惚れていたことに気付き、軽く舌打ちをしながら座る。
「……五百年雁の小間使いをやってきて分かったことがある」
月を見つめながら延が言った。陽子はコポコポと音をたてて茶を注ぎながら聞
き耳をたてる。
「……」
「?」
延が何時までも黙っているので湯飲みから茶を一口含みながら、優子は視線を
卓から転じた。延もまたこちらからの視線に気付いた模様で、こちらを見てくる。
視線が絡み合い、沈黙が辺りを支配しつづける。
「…平和はあまりに退屈で窮屈であるということだ」
「いつも他国に出奔なさっておいでの貴方が言うか」
「戦が無いと殿は暇なんだ」
戦乱や興廃など、他国で幾度も見ているでしょうに。わざわざ貴方が雁を滅ぼ
す必要も無いと思われるが。陽子が溜め息まじりにそう漏らすと、延は人の悪い
笑みでもって答えた。
「五百有余民達は安寧を貪ってきた。だからこそ、滅ぶ様が見てみたいのだ」
「―――もう知らぬ。勝手に滅ぼされるが宜しかろう。雁は貴方の国であって私
の国ではない」
静かに怒りを爆発させた彼女は椅子から立ち上がり、延を見据える。延は茶を
飲みつつ陽子をひたと見つめる。
「延王君には今までこの慶国へのご援助、有り難う存ずる。私は約束通りに雁
の民の保護を行おう。それでは私はもう下がらせて頂くので、蓬山なり玄英宮な
り他国なりここで夜更けまでいらっしゃるなり好きになされよ!」
そこまでを一息で言うと、改めてお辞儀をして軽く笑った。
「私は白雉が落ちるのを楽しみに待たせて頂く」
そしてくるりと回れ右をしてさっさと寝室へ入ってしまった。
『主上』
「何だ」
『宜しいので? 』
「言ったろう。所詮は他国のこと、どうにでもなればいい」
『しかし』
「班渠、眠い。いつも通りに起こしてくれ」
『…御意』
もともと短い睡眠時間だ。貪る様に眠った。
深い眠りに落ちたと思ったらすぐに班渠に起こされた。実質三時間くらいしか
眠っていない。それでも起き上がり、太陽の上がる空を見ようと露台に出た。
そこに延の姿はなく、ただ卓上に茶器が置かれているのみ。
「私が延王のなさることに口を出しても、結局決めるのは彼なんだ」
だから。たとえ今宵白雉が落ちても、それは彼が決めたことだから。あんな担
架をきったから少し後ろめたいが、悔いはない。むしろ心配などしていられない
のだ。この慶東国はまだ己がたってそんなに時がたたない。民達が王による安寧
を待っているのだから。
後日、雁から青鳥が来た。やけに上機嫌で主が帰ってきたが何かあったのだろう
か。何ぞご無礼な真似を致していなかったろうか、と鳥は喋る。
「主上」
「……景麒、私は延王とは何も無かったと先に言っておく」
「そんな事は重々承知です。それよりも主上、班渠に聞いたのですが」
すっと目を細めて景麒は陽子を見据える。その様に威圧感を感じて陽子は数歩
後じさる。
「延王君に向かって喧嘩腰に担架をお切りになったそうですね」
「あれは売り言葉に買い言葉と言ってだな」
「本当に崩御なされたら如何なさるおつもりだったのか」
「……それは」
「まさかかような事があるはずがないとでも?あの御仁は天気ひとつで物事をお
決めになる方なのですが」
「…良く知ってるな」
呆れて半身を見上げると、当然とばかりに見下ろす視線にぶつかった。
「私は主上より延王君との付き合いは長うございますから」
くつくつと足下より笑う声。思わず陽子は床を睨む。
「斑渠だな。まったく、景麒には言うなと申し付けたのに」
『……申し訳ありません。台輔に脅されました』
やっぱりか。うちの麒麟も逞しくなっちゃってまぁ。しみじみと雲海の彼方を
見遣る陽子だった。
パタパタと体重の軽い走り音。帰って来ていた主を見つけて飛び蹴りした。
「尚隆! 利角に聞いたぞこのやろう! 」
「何だ」
やけに機嫌が良くて気持ち悪い。が、用事があるのだから仕方ない。
「陽子をまた怒らせて帰ってきたな?! 」
「美人が怒るとまた美しいものでな」
「変な趣味持たないでくれよ。また俺が陽子に謝りに行くなんてやだからな! 」
呑気に露台で茶なんてしばいてる暇あんだったら、政務に勤しんでくれよ。な
どと人の事を言えないのにのたまう半身を眇めて尚隆はくつくつと笑う。
あの国に余裕が出来るまで待つか。
実際、自分がとても平和すぎることに飽いているのは分かりきっている。なん
せ己は戦国の世に生れ落ちた武将だったのだから。それでも今があるのはこの長
い年月のあいだに沢山の知り合いに出会い、遊び、語ったから。
沢山のものを犠牲にしたから。守りたいものが今、目の前に広がっているから。
いつまで続くとも知れない平和に怯える自分がいることを嘲笑しながら、目の前
の胎果の麒麟を呼ぶ。
そしてまた繰り出していくのだ。
雲海の上より、友ありて故の世界に。
またしてもものすっごく昔に書いたネタです。
懐かしいなぁ
コレを書いて分かった事。自分は十二国記の
二次製作はできない…かも。
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