中国の西端に近い町。ウイグル自治区と呼ばれるそこら一帯は、ムスリムの町
であった。何百年と変わらぬ生活様式、今もさほど崩れた様子のない建物。そこ
に遊ぶ子供達。この老城という街は、ほんとうに襤褸を来た街であった。
アクサカル、と皆に呼ばれる老爺がいる。白髭という意味で、街の賢者と崇め
られている。賢者の事をそう呼ぶ習慣があるのだ。
ある日、その老爺の所に一人の少年が来た。土壁が脆くなった道を小さな影が
歩く。
この街まで日夜三日かけてパン職人に弟子入りしに来た子供である。彼の家族
は貧しく、唯一彼だけが頼みの綱なのだ。
決して小さくはない、売り物を入れる籠を親方の焼いたパンで満載にして、い
つもこの家経由で店へ売りに行く。そして今日もパンをテーブルの上に置いて帰
ろうとする彼を見つめて白髭は言った。
「お前は、何の為にこの地へ来た」
少年は一瞬石のように固まり、やがておずおずと答える。この街の賢者に声を
かけられ、驚きや怯えがあったのだろう。
「立派な職人になるためです。老爺(ラウエ)」
その、稚いながらもきちんと応える様子に老人は目を細めて笑んだ。そして、
「そうか、そうか。お前、名は何という? 」
と尋ねる。少年から得た返事は、
「ハンです」
その誠実さをみとめ、売り物をさばき終わったらもう一度この家へ寄るように
つげる。白髭はふと、この地へ来たばかりのハンという少年に、彼が幼い頃に聞
かされた話をしてやろうと思い立ったのだ。
「今からお前に、ワシらの民族間で古くから伝わる話をしてやろう。その中身を
信じるも信じないも自由だ」
「…どんな、話?」
目を煌めかせた少年。
が、早く帰らなければ親方にどやされる事を思い出したらしく、首を横に振っ
て立ち上がろうとした。片手を挙げて老人は少年を制止する。
「お前の親方にはワシから言おう。聞いていきなさい。ハンよ」
少年に老人は言い、言葉通りに使いを頼んだ。その様子に安堵したのか、ハン
は古くなってボロボロになった敷物の上に正座した。そんなに畏まらなくてもい
い。爺の拙い話だからな。と、アクサカルは水タバコをふかして笑っていった。
その昔、歴史には決して載らぬ時代が存在した。大戦の時代という。
戦いがいつまでも果てなく続いていて、その戦いに参加した国々やその兵達は、
どの国が味方でどの国が敵なのかも分からぬまま、どいつが仲間でどいつがやら
ねばならないヤツなのか、もはや分からぬまま入り乱れて互いに互いを滅しあう。
中には猛獣を飼い馴らす国もあり、彼等の爪や牙によって沢山の命が散華した。
すでに大地は混沌の座す場所と成り果てていたのだ。
そんな中に、彼等は現われた。
大戦の時代が始まって、もう十年が過ぎ去ろうとした頃である。
初めは一人。広い戦場に、ぽつり。白い布を頭から被り、気配すら感じさせず
に。そこにたっていた。
それから数はどんどん増え、やがて十二になる。そして、その場ので戦い続け
ていた者達が彼等に気付いた時に、それはおこった。
十二の人間から突如発生したその圧倒的重圧。静かな湖面より不意に溢れたか
のような殺気。先程の国が新たに参戦したらしいどこの国の戦士とも分からぬ一
団の前に、大戦という時代の洗礼を与える為に放った怒れる大虎は、瞬時におと
なしくなり、彼等に己がこうべを差し出す。
静かな、しかし残酷な圧力の前に、死をも覚悟して抗う事を諦めたのだ。
真っ白の中に現れた一点の染みがジワジワと広がるように、快晴だった空を急
速に雨雲が覆ってゆくように、その場にいた者達の間を埋めつくした感情。
それを、人は絶望と呼んだ。
彼等は敵にも味方にも成り得ぬ存在として、ただ戦い続ける愚者達に制裁をあ
たえる存在として冷静に片端から死を与えていく。まさに、絶望の来訪ともいえ
た。
一人、また一人と後退り始め、やがてその場にいた生き残っていた人間達全員
が逃げ出そうとする。たが、その者達を逃がすつもりなど彼等には毛頭ない。凄
まじいまでの惨劇の幕開けだった。
あるものは、逃げる背中を斬り付けられ、またあるものその白い集団に果敢に
立ち向かう。しかし、為す術なく倒れていくのだ。
そこまて言って、アクサカルと呼ばれる白髭の老人は顎を撫でてため息をつく。
「私のひい爺さんが、さらにひい爺さんから聞いたらしいが、生き残った人間は
片手に数えられる程であったらしい。そして、その中の一人は確かに見たそうだ。
その十二人の戦士達は、光輝く衣をその白い布の下に纏っていた」
良いかハン。我々イスラムの者は彼等を黄金の戦士と呼んでいる。彼等は我々
人類全体の愚行を正し、世界を平和に導くという。
我らイスラム教では殉教は神に近づく事を意味するが、だからといって、父母
から貰った命を粗末にして良い訳でもないのだ。そのような事をしても、我等が
御神アッラーは決して喜ばれはしない。ただの自己満足に終わるだけじゃ。
アクサカルは言葉を続ける。少年は彼の話を一言たりとも聞き逃すまいと、真
剣な眼差しで白髭を見つめていた。
近頃はアメリカやイギリスで自爆テロが起きているが、それはイスラムとして
正しい事ではないのだ。
パレスチナとてそうだ。分かるか? エジプトの隣、紅海と呼ばれる海の近く
だ。イスラエルの弾圧に、罪のない人間を巻き込んだテロで対抗していいわけが
ない。
長老の目は哀しげに光り、口調はしかし朗々と言葉を紡ぐ。
今我々は互いを認めあうことをせず、宗教的、文化的に対立している。欧米諸
国などの中には、我々ムスリムを偏見に満ちた目で見るものもおる。勝手に難癖
をつけて戦争を起こし、無実の国をボロボロにするものもおる。しかしな、ハン
よ。我々はそんな心の壁を取り除かねばならん。
老人は身を乗り出すようにして少年の眼を見据え、少しトーンを落として続け
る。
「さもなくば、我々の所にも、彼等の所にも黄金の戦士達が現われ、制裁をうけ
るであろうよ」
少年はアクサカルに問う。それはいつの事なの? 老人は優しく問い返す。先
の戦いの事かな? それとも我々の元に黄金の戦士達が現われるときかな?
ハンの目は不安げに煌めき、どっちも と小さく呟いた。
「先のあの制裁が起こったのは…たしか二百四十三年ほど前だの。詳しい事は伝
わっておらんが、ちょうどそれくらいの時代に、この周辺地域の人口が激減して
おるのは確かだ。それからいつ彼等が来るかはワシにも分からん」
顎から垂れ下がる白い髭を撫でながらハンを見る。少年は、軽く怯えた様子を
みせる。老人は優しく笑い、諭すように言葉を紡ぐ。
二度あった世界大戦も、つい最近あったイラク戦争の時も、恐らく彼等は現わ
れたんじゃろうて。故にオーストリアもナチスドイツも日本も負けたんじゃ。
ハンよ。お前は家族の為に働くと言う。それはとても善いことだ。だが覚えて
おけよ、いつか人生の中で、殺してやりたいくらいに憎い奴がお前の前に現われ
るじゃろう。
だがハンよ、ただ憎いと思うだけでは駄目なんじゃ。その憎しみを、相手を見
返すための力にせねばならん。そしてその憎く思うた相手に感謝するんじゃ。自
分を高めてくれた訳じゃからな。
少年の目がキラリと輝きだす。自分の中を顧みて、よく考えているのだ。
その時、アクサカルの家を手伝ってくれている若い男が顔を出す。
「アクサカル、お客様です」
「入っていただいてくれ。丁度良い時に来てくれたものだ」
入ってきたのは黒い髪と、燻したような金髪の若い男達。
「久しいの、アクサカル」
外見とは裏腹に、随分と年の寄った話し方をする。
「おぉ、童虎。シオンも。よくいらっしたな。丁度この子に話しておったところ
だったのだ。ささ、座りなされ」
二人はあぐらを掻きながら少年に眼を注ぐ。四つの目に見られて、ハンは少し
恥ずかしそうに身じろぎした。
「のぅシオン」
「なんだ」
「幼い日のシャカに似ておらんか? 」
「馬鹿を言え。あ奴は幼い頃から既にあの口調だったぞ。この子はそのようには
見えん」
二人の会話の意味が分からずに、少年は目の前の老人を見やる。アクサカルは
微笑み、言った。彼らに大戦の事をきいてみなさい。様々な事を知っている。
童虎と呼ばれた若者は、片眉を上げて二、と笑んだ。
「なんじゃ、あの戦の話か。アレは沢山の血が流れた。女神の戦士達もほとんど
死に、敵もほぼ全滅しよった。…ん? 女神とは誰だ、じゃと? 女神は女神だ。
彼女は戦士達を統べる統領じゃった」
シオンが後を継いで話す。細い目から放たれる威圧感。優美な中で吐かれる言
葉。少年にはシオンがまるで何百年も生きてきた人間のように感じられた。
「彼女は美しく聡明な御方でな、仲間内でおこる諍いにも、その英知を持って臨
まれた。そして彼女は誰よりも勇ましく、誰より美しく、誰よりお優しい方だっ
たのだ」
それから暫らく不思議な若者二人の話に耳を傾けていた少年は不思議そうな顔
をして二人に問う。
「不思議。あなた方はまるでその戦いや女神様を見てきたようにお言いになられ
ますね。なぜ? 」
二人は答えない。ただニコニコと笑みを返すだけ。
と。
「此処にいたんですか、猊下。探しましたよ」
白いマントを翻した、一人の戦士が窓の外に立って苦笑していた。
なぜ戦士と分かるかなんて、彼の出で立ちを見れば一目瞭然だ。彼は布で体ほと
んどを隠していたが、その体の稜線は明らかに甲冑を着込んだ者のそれであった
のだ。目を見張った老人を余所に、童虎は笑いかけて言った。
「もう見つかってしまったか。案外早かったの、アイオロス」
「あなた方の行動パターンには、もう随分長いこと付き合ってますからね」
黒髪の青年はカラカラと笑って、それもそうじゃと言う。
「じゃがのぅ、ワシ等にかなうほどはつきおうておらんじゃろう」
「当然です。いったいいくつ迄生きるおつもりですか、あなた方は」
風が吹き、呆れた青年の栗色の髪が揺れる。見つかってしまったことだ、帰る
としようかな。そうじゃの。童虎とシオンはくつくつ笑って立ち上がる。アクサ
カルと少年は見送りに出て行く。
そしてすぐに自分も帰らなければ親方にどやされることを思い出してアクサカ
ルにペコリとお辞儀をし、彼らの後を追う。
先に歩いていた童虎がそれに気付き立ち止まる。
「ハンといったかの。そなたは誰かに似ておるな、やはり」
「シュラじゃないですか。髪の色、瞳、このおとなしそうな立ち居振る舞い。あ
いつにそっくりだ」
アイオロスがいう。シオンが笑んだ。
「そうさな、似ているかもしれない。リタなら一発でいうだろうな」
不意に頭に手を置かれたのを感じた。見上げればアイオロスと呼ばれた青年だ。
青年は少年に柔らかく笑いかける。まるで、兄が年の離れた弟にたいして笑いか
けるように。
そして、少年は見てしまった。ほぼ全身を覆っていたマントの下から、黄金に
輝く鎧が覗いていたのだ。
ハッとして青年を見上げる。
「見られてしまったか? 」
シオンが苦笑している。童虎がニタリと笑って少年の肩に手を置く。そして語
りかける。
「ハン、お前は強い。これからのことを背負って真っ直ぐ前をみて生きてゆかね
ばならん」
お前には守るべき家族がいる。彼らがお前を頼りにしている以上、お前は彼ら
を守る義務があるのだ。わかるな? 少年も真っ直ぐな瞳で童虎を見返す。
「そう、いつか、どうしようもなく苦しくなったらギリシャに来い」
アテネという街でワシ等を探せ。わし等はきっとお前達の力になるだろう。
また会おう、少年よ。そう言って、人々が歌うディンガルという魂の叫びの歌
が辺りに響く中、彼らは去った。
そして、少年は二度と彼らに会うことは無かったという。
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