アテナと共にオリンポス山へと向かう。あれほど嫌がっていたヒラヒラの助祭の衣装
をまとい、アテナの祝福を受けたベルトをして。目立たないように上から服を着て山ま
で訪れたのだが、此処までくれば人目なんて無いだろう。沙織とリタは上に羽織ってい
たものをそのあたりの岩の上に置いた。
辰巳が心配して付いてこようとしたが、リタは軽く笑って止める。彼女は私が守ろう、
曲がりなりにも教皇代理としてこの地に赴いている身だ。辰巳は少し不満そうだったが
青銅の瞬に、彼女なら大丈夫だよと太鼓判を押されながら説得されたのでしぶしぶ承諾
した。
春も中旬、神の山にも暖かい風が吹いている。しかし流石にまだ春とあって助祭の服
装は肌に寒々しい。少し鳥肌を立てた沙織にリタが大丈夫ですかと尋ねる。言ってしま
ってから気がついた。彼女は女神、小宇宙をコントロールして体を温める事など訳はな
い。
慌てて誤魔化そうとしたら沙織は笑ってありがとう、と応えてくれた。それに安堵し
つつリタはさり気ない疑問を口にする。
「アテナ、ここからはどうすれば」
「お兄様か誰かが迎えに来てくれると思うのですが、来ないわね」
「ええ」
「一応話を通したはずなのだけれども……」
二人でいささか心細げに話していると、遺跡付近から光と共に一人の女性が現れた。
沙織やリタと変わらぬ格好であり、何よりその体にみなぎる小宇宙の偉大さは、リタの
横に立っている女神と同じかそれ以上。美しいライトブラウンの髪を上に結って豪華な
髪飾りでとめている。首飾りも、腕輪も。相当のものだ。
アテナが軽く一礼して言う。
「ヘラ様、まさか貴女様がいらっしゃるなんて思いもしませんでしたわ。お久しゅうご
ざいます」
「よい。私もいつまでもあのうだつの上がらない男の見張りをしていては疲れるのじゃ。
ゼウスに用があるのであろう。さ、私について来なさい」
権力を象徴する孔雀を連れて歩いてきた彼女はアテナとリタに笑いかけ、後ろを向く。
その後姿までが光に包まれているかのような、そんな錯覚に囚われた。そして、アテナ
がリタに合図して、歩き出す。
太陽の光から炎を採取する遺跡。普段はそれ以外にこれと言った物等無いに等しい其
処には白く長い階段が。目を丸くしていた彼女を振り返り、大神の后は微笑んだ。
「なんじゃ、南十字星はここが珍しいのか? 」
「は、いつもは何も無い山だと聞いておりましたもので」
「当たり前じゃ。普通の人間にコレが見えたらどうする。オリンピックのたびにゼウス
の下へ人間が押し寄せよるわ」
アテナがクスクスと笑う。アハハ、と苦笑いしてリタは自分の迂闊さを恥じた。
長いはずの白い階段、数十段上るだけで最上段にまでいた。そして最上段から見える
のは、大きく聳える天界への門。高さ二十メートルは軽く越えている気がする。その門
の左右には、これまたでっかい門番が二人。厳しい顔でリタ達を見下ろしていたが、ヘ
ラとアテナだと分かった瞬間に、膝を着いて礼をし、静々と扉を開けた。
「ヘラ様、お戻りなさいませ」
「アテナ様、ようこそお帰りくださいました」
ヘラの話によると彼等は巨人族の出身であり、ゼウスやヘラの父クロノスの親族に当
たるのだという。ゼウスが父と天界の主権を争ったときに、彼等はゼウス側に付いたの
だ。
門を通り過ぎ、庭とおぼしき場所を歩いてゆく。花が咲き乱れ、ニンフと呼ばれる妖
精達が思い思いの格好で戯れている。誰かの笛の音が軽やかに響いている。
少し離れた東屋でお喋りをしているのはホーラーの女神達だろうか。
「よく来たな、これがオリンポス。我々の世界じゃ」
Please,please,please ……
「これが、オリンポス……」
リタの圧倒されたような声にアテナの化身は軽く笑む。だだっ広い庭園を三人で歩む
うちに大きな神殿が見えてきた。十二宮や教皇宮はもう見慣れているのだが、ここはそ
れらを遥かに越えた華麗さがある。白亜の壁が燦然と煌き、エンタシスの柱が美しく並
ぶ。
中に入るなり、ヘラは声を上げた。
「貴方。アテナが帰ってきましたよ。いつまで寝ているんですか」
大神からの返事は無い。代わりに、一人の女性が走って現れる。その女性は沙織を見
るなり、目を見張る。
「まぁ、アテナ! 」
「お母様! 」
アテナに実母がいるとは初耳だった。目が点になるリタ。ヘラはにっこり笑って駆け
て来た女性に声を掛ける。この神社会では一応ヘラとゼウスが最高神ということになっ
ているが、実際は適当もはなはだしい。
メーティスなんぞにいたっては、ゼウスの最初の妻だというからなんかもぅ、ねぇ。
っていう状態なのである。
「メーティス、あの節操なしは? 」
「まだ寝室で居眠っていらっしゃいますわ、ヘラ」
アテナの母だという女性は困ったように笑う。彼女の髪は美しい金髪であるが、沙織
は茶色であった。親子といえども髪の色は似ないものなのだな、とリタはつくづく思う。
しかしながら沙織はアテナの化身なのであり、神そのものではない。そこんとこを、
リタは判っていないのかもしれない。
うんうん、と感心するように頷くリタを見てメーティスは不思議そうに首を傾げた。
「あら…? 貴女、もしかして……」
「私の聖闘士ですわ、お母様」
「あら、そうなの? 私はてっきり…」
言いかけたメーティスをヘラが遮りつつ声をかける。
「メーティス、あの愚弟を起こしに行くわよ、ついてらっしゃい」
「判ったわ、今行きます」
二人の女神は大神の寝室へ繋がる廊下へゆったりと歩んでゆく。
それを見送りながら、リタは少し眉間に皺を寄せていた。様々な神がいるこのオリン
ポス。偉大なる小宇宙が多すぎて、隣にいるはずのアテナの小宇宙ですら判りにくくな
ってしまった。女神達がそんな様子のリタに振り向きざまに軽く声を掛けてくる。
「アテナ、それに南十字座。ついてくる? 少し歩けば小宇宙の威圧にも慣れるでしょ
うよ」
そしてこのオリンポスを統括する神の駄目さ加減をその目で見るがよい。メーティス
もヘラもクスクス笑っている。アテナは軽く肩を竦めて南十字座についていこうと合図
した。リタは訳がわからずに頷き、後をついていく。
が、行こうとした所でその必要が無くなった。大神がヘラの鉄槌を恐れて自ら出てき
たのである。そのせいだからか知らないが、いささか髪の毛がよれている。
……また、ごっつい小宇宙が出てきたな………毎日毎日こんなでっかい小宇宙にあて
られて慣れる方がおかしいっつの。思わず胸中で考えたリタなんぞはそっちのけで、と
りあえず大神は自らの妻達に声を掛けた。
「すまぬ、うっかり午睡を楽しんでおった」
「貴方の駄目なところはもう周知の事実ですから、そんな言い訳は誰も耳を貸しません
よゼウス」
大神はもう耳にたこができるくらい聞いたわい、という顔をしながら二人に向き直る。
優しく、深みある声で大神は言った。
「アテナ、よく帰った」
「お久しゅうございます、大神」
「立ち話もなんだ、椅子のある所へ移動しようではないか」
大神がそう言うやいなや、彼らのいた場所が廊下から大きな談話室に変わった。そし
てそれぞれの神が適当にその辺りのクッションに身を預ける中、リタは沙織の後ろ側に
立つ。
「して、アテナ?この者は」
「この子の聖闘士ですよ大神。今はハデスとの戦いで死んでしまった黄金聖闘士たちの
代わりに十二宮を統べる教皇代理をつとめているわ」
メーティスが代わって応える。リタは自分がものすごく場違いな場所にいることをた
だただ実感するのみである。まぁしっかし、神さまってのはフリーダムなんだな。暢気
にそんな事を考えつつ、リタは大神に深々と頭を下げる。ゼウスはそんなリタを見つめ
てボソリと呟いた。
「……久しいことよな」
「あの、差し出がましきことは承知で失礼いたします……大神ゼウス、私に何か? 」
「否、気にするな。私の戯言だ」
「貴方の戯言はもう聞き飽いたわ。アテナよ、それより我等に用があってここに参った
のであろう?申してみよ」
ゼウスが言った事を軽くスルーしてヘラが沙織を促す。沙織は少し躊躇してから、そ
の口を割った。
大神もヘラ様もお母様もご存知のように、つい先日の事。私と大神の弟君であるハデ
スの間で地上の覇権を巡る戦いがありました。私は遥か昔からその戦いを続けるために
次から次へと転生して参りました。そして聖戦が起こるたびに十二人の戦士達は生を受
け、そして私と聖域を守って散ってゆきました。
「そういや、そうさな。アレとポセイドンはそれぞれそなたに戦いを挑んでおったのであ
ったな。決着がようやっとついた、とヘルメスから報告は受けておったが」
大神は頷く。そして、そなたがアレ等に勝ったのであったのだな。アテナは悲しそう
に肯定する。そうです、勝利はいたしましたが多くの聖闘士達はその命を散らしていっ
てしまいました。それを見てゼウスは軽く片眉を上げる。
「何を悲しむ必要がある。彼らはそなたの駒であろうが。我々のいがみ合いに人間が関
われば必ずその者達には死が送られる。そなたとて承知の上で冥王と海皇と戦っておっ
たのではないのか」
「判ってはいます。ですが、この度の戦いにそれぞれの戦士たちが犠牲になりました。
ハデスには冥闘士、ポセイドンには海闘士、そして私は聖闘士。彼らの命は我々にとっ
て安いものなのでしょうか。神として世界へ臨む時、人の命はかくもたやすく奪ってよ
いものなのでしょうか」
「アテナ。まず人のことよりもこの地球のことを考えよ。地球は生まれてよりこの方、
様々なものを生み出してきた。我々のおおいなる神、カオスとともに生まれた地球は大
地をつくり、生物を作った」
ヘラがアテナを諭すようにゆっくりと言う。メーティスも優しく諭す。彼女等は女神
である。威厳を保ちながら静かに語る。室内は出入り口が四方にある上に大きくとられ
ているのだが、誰かが近くを通るということが無い。シン、と静まり返った空間に女神
の声が響く。
「その末端に生まれたのが言語能力をもつ生物、人間でしょう。その人間達は生みの親と
もいえるこの地球を汚しているわ」
「ですが、私にとっては守るべき人間でした。彼らが居てこそ私は叔父に勝つ事ができ、
更にはこの世界に平和をもたらしたのです」
「わが娘アテナ。否、人間界でのアテナの化身、城戸沙織よ。お前は平和をもたらした
と言った。しかし、それは違う」
ゼウスが真っ直ぐに沙織を見つめて言う。
「お前は今、その人間界が本当に平和であると? 本当にそう思っているのか? 」
「……いいえ」
「話に割り込ませてもらいますけどいいかしら、大神。アテナ、貴女が言った平和はきっ
と、自分さえよければ後は何でもいい人達の状態をいっているわ。それでは本当に世界が
平和とはいえないはずよ」
それから、といったん区切ってメーティスは沙織とリタを見やる。流石思慮の女神とあ
って、相手に話を聞かせるのが巧い。
「平和、という言葉の定義は何? “正義”とは何? 私の愛しい娘? 」
「……」
言葉に詰まる沙織。まさか、戦争が無い状態、などと言えるわけが無い。ついこの間まで
その“戦争”とやらをしていたのだから。ならば、本当の平和とは何だろうか。そして決し
て己の行為を正義とは言えない事は厭という程知っている彼女。
己が冥王とこの地上の主権を争ったのは、他でもない自分のためであり、人間達のため
ではないのだ。例え人間達を救ったとしても、その救われた人間達は自らで自らを地の底へ
堕ちる行為を働く。たとえば、戦争。そしてその言葉の中に含まれる、捕虜達の体を使っ
た実験、拷問、慰安婦。そういった己の国が犯した犯罪を歴史の中から抹消する国すらあ
る。もう一度戦争をしようなどと考えるものも現れる。自らがこの世界で最強であり、自ら
がこの世界を統べていると勘違いしている者もあらわるのだ。
考えれば考えるほど、平和という言葉はなんて曖昧なものなのだろう、と思い知らされる。
なんと己の掲げる正義とは力なく、世界の者達に通じないのであろうか。
そんな中、ポツリと呟いた者がいる。リタだ。さっきから沢山の神々の名前や戦争の話、
平和とは何かという話を聞いてぐるぐると考え続けていた彼女は言葉を続ける。
「……皆が笑っていられること……それが平和なのだとしたら、多少の犠牲は仕方がない
ものなのだと、双子座の弟が言っていたと聞きました」
双子座だけではない、その聖域に居るものは皆同じ考えであったのだ。
ただ、黄金の聖闘士全員が居なくなったという事実が余りに大きかったというだけな
のである。
聖域は未だ回復の兆しが見えぬままに女神等を迎えた。残っていた白銀や青銅聖闘士
が全て、そして雑兵たちが出迎える。しかし、帰還してきたものたちはたったの七人。
しかも女神以外は皆酷い傷を負っており、特に酷かったのが星矢の傷で、すぐにアテ
ネ市内のグラード傘下の病院へ搬送された。
黄金聖闘士やシオンが帰ることはなかった。その事実に驚かない者はなかった。リタ
と貴鬼のみがその真実を知っていたである。彼らは、彼女の元に最後の別れをしにきた
のだから。
沙織が疲れきった顔で女神像の前に立つ。己の必殺技を天猛星と浴びたが、奇跡的に
生き残り共に帰ってきたカノンが側に控えている。
「皆さん、私達は長い間戦い続けてきましたが、それもようやく終わりました」
けれど、と女神は口ごもる。十二人の黄金聖闘士は誰一人として帰っていない。彼ら
は戦いのうちに犠牲となったのだ。それをなんと言って説明すればいいのだろうか。
「しかしながら、貴女が、そして重症とはいえカノンや星矢達が無事に帰ってきてくれ
た。我々はそれだけでも十分でございます」
リタが沙織に皆を代表して告げる。そして、お帰りになられて早々申し訳ないのです
が、教皇無き今、新たなる教皇が必要と存じます。そう、ここにいる皆を纏める役割で
ございます。
「そこで、私はカノンを教皇に推薦したく思うのですが、いかがでございましょう」
「俺は駄目だ。海界の後始末をしに行かねばならんからな」
「それじゃ仕方ないな――魔鈴を推薦しましょう」
一同の視線はリタと女神、そして魔鈴に集中する。カノンは呆れて手を目元にやりな
がら溜息をつく。鷲座は驚いたように言った。
「何言ってんだい、カノンがならないならアンタが教皇をやらなくて、誰が此処をまと
める! 」
「私はもう、抜け殻みたいなもんなんだよ。それにお前は星矢を育て上げた。十分、で
きるさ」
「だが……!! 」
青い空に見つめられる中、罅割れた仮面をつけた魔鈴はリタに抗議の声を上げかける。
だがその瞬間、貴鬼が ―聖戦の終盤に受けた傷が元であろう― 倒れた。とっさに蛮
が貴鬼を支える。南十字座は軽く笑んで蛮から貴鬼を受け取り、彼を床につかせる為に
教皇宮内へと消えてゆく。
女神は額に手を当てて、言い放った。
「教皇の件は後におって伝えましょう。皆今日はもう休んでください」
それから、沙織自身もひどくつかれたようにその場に倒れこむ。カノンが慌てて彼女
を支え、いそいで女神の寝室へ運んだものだ。
貴鬼が倒れて二日が経った。彼は未だに眠り続けている。カノンは既に海界に行って
しまった後だ。皆が引きとめたのに彼は行ってしまった。その際、リタはカノンに言っ
た。必ず帰れと。双子座は苦笑をして言ったものだ。
「約束はしかねるが……努力しよう」
兵達は、聖闘士等の協力を得て建物の再建に力を入れていた。リタもその中に混じっ
て基盤を引っぺがしたり、剥がした基盤を麓へ持っていって破砕するなり、補修するな
りの手伝いをしていたのである。
そして新しい大理石を持って白羊宮への階段を上ろうと片足をかけた時に、兵が指令
を持ってきた。なんでも沙織直々の命令であるようで、内容は今すぐに教皇宮に来るよ
うに、とのこと。
初夏に近づくこの季節に、暑い日ざしが照りつける。あっついなぁ、登るの面倒だけ
ど、まさか沙織お嬢の命令に背くわけにもいかないしなぁ……。と、着ていた繋ぎを上
半身もろ肌脱ぎにして腰で括る。ちなみに下にはちゃんとシャツをきているので安心し
てほしい。
そしてその場に基盤を置いてゆくわけにもいかないので、とりあえず行きます連絡サ
ンキュー、と返事はしたが、今は先に巨蟹宮まで登ってしまうほうがいいだろう。彼女
は石段を駆け上がった。後から檄や蛮がついてくる。
後を任せようと声を掛けてみた。
「すまない、私はいまから教皇宮に行ってくる…… ? 那智は? 」
「あぁ、アイツの修行地のリベリアに行ったんスよ。現地では内戦が絶えないから…」
「そっか……ここよりも、あっちの方が酷いんだよな……」
「えぇ…、聖戦は終わっても、この世界に平和って訪れてる気がしないッス」
檄も蛮も、疲れたように呟いて笑った。彼らも辛いのである。頼りにしていた黄金聖
闘士達はすでにいない上に、戦いが終わったのに何も得る物がなかった失望から。
今のこの状態の世界はヘイワなのだろうか。そんな思いに駆られたまま、リタは石段
を登る。宮付きの兵に合図して、玉座の間につながる扉を開いてもらう。玉座には沙織、
周囲に数人の神官と女官達がいた。沙織は眉間に皺をよせてとても深刻そうな顔をして
いる。そんな空気の中だから、と殊更明るい顔でリタは彼女に問うた。
「お呼びですか」
「えぇ、実は教皇のことで話があるのです」
「……私は変わりません。アテナよ、私は教皇にはならない」
沙織は俯きかけた顔をパッとあげてこちらを見やってくる。どうして、とその瞳は語
っていた。周囲の神官たちも何故、と口々に声をあげる。リタは一瞬言葉に詰まるが、
唇を噛んで顔を背ける。しかし笑顔を作り直して言葉を紡ぐ。
「アテナよ。私は貴女がこの聖域に戻っていらっしゃった時に、サガを、シュラ達を止め
る事ができなかった。聖戦でもそうだ。貴女を狙う冥闘士から守ることができず、ただ指
を銜えてシャカや貴女が死ぬところを見守るほか無かった」
「それは違います、リタ」
「違う事がありましょうか。私は共に冥土へ向かって聖戦に参加し、死ぬつもりで生きて
きた。なのに、私は生き残ってしまったのです」
このような無駄に生き残ってしまった私に何ができましょうや。静かに目を瞑って彼
女は言葉を切る。彼女の本心はわからない。分かってもらおうにも言葉が足りず、あまつ
さえ彼女は己を否定し続ける。たまりかねたような叫びが響き渡った。
「違います! 」
「違うよ! 」
真正面から聞こえた声を上げたのは沙織であることは判る。でも、もう一人は誰だ?
見れば、柱に凭れ掛かるようにして貴鬼が立っていた。室内に立っていた辰巳が驚いて
駆け寄る。沙織も驚いて玉座から立ち上がったものの、何ができるわけでもなく、もう
一度座りなおす。
「お前、寝ていなければ……」
「いいの、辰巳のおじちゃん」
「おじっ……まぁ、おじさんだわな」
辰巳は呆れつつ納得しながら貴鬼の体を支え、リタ達の側につれてきた。貴鬼は時折
傷が痛むようで、辛そうな顔をしている。
「リタ姉ちゃん、それは、違うよ! 」
「何故」
「オイラ達聖闘士は、曲がりなりにも主に仕える下僕だ! 主を守って死ぬ事こそ本望!
ってムウ様は言っていたけれど……っ、オイラは、それは、違うって思ったんだ」
すこし辛そうに咳き込みながら、それでも貴鬼は続ける。沙織は一瞬辛そうな顔をし
た。遥か昔から言い伝えられてきた聖闘士の掟。聖戦の折には必ず戦女神を守って死ね。
なんと残酷な運命を歴代の戦士達に課してきたことだろう、そう思っているのがリタにも
判った。
「皆が、皆が笑っていられるのが、平和なんだよね? そのためには、少しの犠牲は必要
なんだよ。残された人間は、死んだ人たちの為にも生きるっていう使命を全うしなければ
ならないんだよ……っ!! 笑ってなくちゃいけないんだ」
「お前……」
貴鬼は笑顔で続ける。声は震えているけれど、今にも泣きそうになっているけれど。
「だから、皆が笑っていられるために、オイラもわら、うんだ!! あた、えられた、仕
事を、やり遂げ、る、んだ……っ!! 」
笑顔が途中から酷く歪み、ニコニコと笑おうと努力する瞳からは大粒の涙が零れる。
沙織も泣いていた。辰巳は涙こそ見せていないが目元を赤くしている。南十字座が貴鬼
に近づいてその稚い体を優しく抱擁する。
「貴鬼……」
リタの着ているTシャツで涙を拭いて、貴鬼は言った。
「……っオイラの考えた事じゃないんだ、コレ。カノンの兄ちゃんがね、言ってた」
カノンが。あの海皇をけしかけ世界を滅ぼさんとした双子座の弟が。あいつが言いそ
うなことだな、とリタは笑う。その瞳を覗き込んで貴鬼はさらに言った。
「だからリタ姉ちゃん、教皇をやって欲しいんだ。コレはオイラだけじゃない。聖域皆
の願いであり、シュラ兄ちゃん達の願いでもあるんだ」
「そうだよ、リタ。アンタが教皇やってくれないと私もろくに星矢の面倒見れないじゃ
ないか………邪魔してるよ、アテナ」
「えぇ、」
不意に姿を現した鷲座に涙を拭いながら沙織は応える。リタは小さく驚いていた。こ
んな稚い子供が、既に覚悟をして生きようと前を向いているというのに、自分は何をし
ていたのだろうか。
逃げようとしていた。そう、己が一人ぼっちである事を改めて目の前に突きつけられ
ることを恐れていたのだ。己の使命、定められた宿命を受け入れる事を嫌な事から逃げ
るのは人間の本性である。
そして、彼女は逃げ続けていた事実に立ち向かうのである。
「平和、安寧……なんと抽象的なものだろうか。アテナよ、お前の考えた世界の安寧や
平安を守るためには、それ相応の対価が必要となるのだ。武力で贖おうとすれば、守るも
のの大きさによって必要とする犠牲が増える。今度の戦では、そう、お前やポセイドンや
ハデスの兵達だ」
大神はリタの言葉に頷き、そしてアテナを見つめる。彼女は黙したまま言葉を発そう
としない。
言葉を発したのはリタだった。神々の前に進み出て、彼らの前に膝をつく。
「ですが大神、我々は今一度彼らの、聖域や冥界、海界の戦士達の力が必要なのです」
「南十字星、控えよ。我々とそなた等は違うのだ」
どうか、どうか彼らを冥界から、いえ、虚無の世界から連れ帰るすべをお教えくださ
い。南十字星は嘆願する。己の愚かさを知りつつ、それでも。ヘラが低く咎めた声に、
跪き土下座をしていたリタはキッと目だけを上げて神々等を見上げる。
「実在しない神ならば全知全能、または零知零能であることもあり得ましょう。しかし
大神よ、貴方達は実在している神なのだ。故に間違いを起こすこともありましょう。現
に神であるはずの、間違いを起こすはずの無い貴方の弟君と娘がこうして争っていたの
です」
あなた方と我々か弱き愚かな人間、能力は違えど性質は同じでございましょう。貴方
のお力をどうぞ、神々の諍いによって散っていった戦士達を思い涙する者達の為に。
大神はその視線を真っ向から受け止め、それでも首を縦には振らない。当然であろう。
彼はこのオリンポスを統べる神なのだから。大神としての立場がある。
そんな理由で、例外を作るわけにはいかない。それゆえに彼はアポロンの子供を殺し
たのだから。
黙し、やがて一度瞼を瞑って、大神は座を辞して行ってしまった。ヘラもあとに続い
て退出していく。メーティスが悲しそうな瞳で目の前に居る神の化身とそれに仕える女
を見る。
なんと哀れな生き物か。
自らの生の意味を問い、命が惜しいにも関わらず神の玩具になり、そして死んでしま
えば後に残されたものは嘆く。だが神にしてみればそれらはほんの些細なことであり、
とうの昔に超越してしまった事柄である。人間の悲しみは神にとっては理解に困る事柄
なのであった。
だがメーティスは、その人間の悲しみ、エゴに興味があった。
「リタ、といいましたか」
「は、」
女神が軽く肩に手をかけ、起き上がらせる。そのことにリタは驚く。
そして女神の疑問に更に戸惑う。
「あら、ヘパイストスの作った物の波動が近いわ。貴方達をまっているみたいよ? 」
「は? 」
その言葉に沙織はハッとする。沈んでいた顔に希望の光が差したように彼女の顔が浮
かんだ。
「お母様。まさか、彼女が?! 」
「さぁ、どうかしらね? 」
「こうしてはいられないわ。リタ、帰りますよ」
「……何か術でも思いつかれたので? 」
リタの質問に答えている時間は無いとばかりに沙織は彼女の手を掴む。母親に別れの
キスをおくりながら急いで転移する。
手をひかれながら、神とはなんと勝手なものかとリタは考えていた。
しつこく続きます。
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