ガチャン。
その音は、唐突に広い室内で響いた。見れば音源は、一つのブロンズ像。
形ある思い出がまた一つ、消えてゆく。
回想
「申し訳ございません!! 」
「や、いいよ。気にすんな。逆に怪我はしなかったか? 」
自分のしでかした事に、恐怖のあまり青ざめた顔で平謝りする女官。それを笑顔で許
して下がらせた。一人残った部屋で、その壊れた像を見る。
高さ60cmあまりの、片足一本でバランスをとるその少女の像。落ちて割れたのは
その表面で、心棒になっていた螺子状の太い金属棒が露わになっていた。
「こりゃー、直らんなぁ…」
正直、参った。これは思い出の品だったから。軽く溜息を吐きながらそっと破片を拾っ
て小さなビニールの袋に入れると、倒れていた像を持ち上げて隣室にあるベッドに寝かせた。
そしてそれを突っ立ったまま見つめていた。と。小宇宙で彼女の脳裏に言葉がよぎる。
ーリタ? 入りますよ?
「……ムウ? 」
時をおかずに、居住区に現れた丸い眉が印象的なその男。十二宮の最前線である、白羊
宮を守護する黄金聖闘士、牡羊座のムウ。サガの乱においては、その聖衣修復技術をも
ってアテナ達を支援した。そして現在は弟子と共にジャミールからここ聖域に居を戻している。
扉をくぐるなり、男はリタに問うてきた。
「何かありましたか? 」
「? 」
「今用事で教皇の間にいたのですが、退出する際、貴女の小宇宙に揺らぎを感じたので
下に戻る途中で来てみたのですが」
「ん、別に何でもない。――茶でも出すよ、飲んでくか?」
ムウを適当に座らせて、リタはキッチンに直行する。湯は予め保温器に入れてあるの
で、ポットを暖めてから茶葉を放り込み、その上から湯を注げば事足りる。
お盆にポットとカップ、ティーソーサと茶濾しを載せて牡羊座のもとに行けば、さっ
きまで座っていた場所に彼がいない。
「ムウ? どこだ? 」
「……これは、どうしたのです」
男は彼女の寝室にいた。ブロンズ像を見ている。その目は真剣で、何かを思い出そう
としているようでもあった。
「お前女の寝室に勝手に入るってどうよ…。まぁいいか。それな、女官が倒しちゃってさ、
しょーがないから此処に安置してるんだ」
「……本物がアメリカにありますね? 」
「あぁ。ニューヨークにな。茶、冷めるから早く飲もうぜ? 」
彼女に促されて、部屋を出てソファに体を下ろす。カップに注がれた赤茶色の液体からは、
とてもいい花のような香りがした。アールグレイをベースにしているらしい。一口含んではそ
の味を確かめて、ホッと安らぐ一瞬である。
一息ついて、ムウは改めてリタを見据えた。
「さっきのあの銅像、シュラが買ったものでしょう」
「何だ、知ってたのか」
肩を竦めて頷く女。彼女と、居なくなってしまった山羊座の黄金聖闘士の最初の出会いは、
たしかアメリカのニューヨーク市であったはずである。あまり上品とは言えない地区に住ん
でいた彼女の元に、山羊座が任務で赴いたのだ。
そしてリタが山羊座に協力した事で身元が割れ、山羊座は彼女を聖域に連行した。それか
らだ、彼女と、あの三人がつるみ始めたのは。
「シュラで思い出したのですが、」
「? 」
「あなた達は何故、サガの秘密を知ってしまった時に、我々に真実を知らせてはくれなかった
のです? 」
「……ミロ達と同じこと聞くんだな」
少し呆れた口調で呟いたリタを、意に介さず彼は続ける。
「貴女が氷柱の中に捉えられていたこと、それを助け出したことの凡そはアルデバラン
に聞きました。あの時、一体何があったのですか」
アテナの胸の矢が消え去り、女神は十二宮の頂上にあるアテナ神殿へと向かっていた。
後に続く黄金聖闘士達。牡牛座のアルデバラン、獅子座のアイオリア、乙女座のシャカ、
蠍座のミロの四人は磨羯宮を通り抜けようとしているところであった。牡羊座のムウは
一足先にアテナと共に頂上へと向かっているはずである。彼等の後から青銅聖闘士達や
雑兵達もついてきていた。
主無き宮。
ついこの間まで、此処を通ればあの四人組の誰かに必ず会ったものだったが。今はその
四人の誰も、いない。実質この戦いに参戦はしていなかったが、シュラと共にいたはず
のリタまでが居ないのだ。堂室内は薄暗く、そしてとても静かだった。
「! 」
シャカが何かに反応して足を止める。それに気付いたアイオリアが同様に足を止めて問
いかける。己の兄の濡れ衣の罪が晴れて、心ばかし表情が明るくなっていた。
「どうした、シャカ。何かあったのか」
「いや、そうではないのだ。――凍てついた小宇宙を感じないかね、アイオリア」
「凍てついた小宇宙、だと? 」
アルデバランとミロも気付いて先を行く歩みを止め、ニ人を見る。アイオリアは言われ
て少し首を傾げながら意識を集中する。――感じる。微かにしか感じられないが、誰か
の小宇宙が近くにいるのを。
常に目を閉じて小宇宙を増大させていると言われる男は、暫く磨羯宮内を見回してい
たが、やがてとある一室に続く、居住区への廊下に繋がる扉の前へ歩み寄り、徐に扉を
開けた。宮内にある扉はどれも古い大きな木が使ってあり、重々しい雰囲気を醸し出す。
その大層長い事使われ続けてきた扉が音を立ててゆっくりと開かれてゆく。
中にあったものは。
「――ッ!! 」
「こ、これは……!! 」
「い、一体誰がこんな事を!! 」
四人の様子が只ならぬのを感じた青銅聖闘士の一人がどうしました、と言いながら駆
け寄ってくる。我に返ったシャカが扉を閉め、彼に告げる。
「何でもない、先に行きたまえ。我々は少々用事があるので此処に残る」
「――? りょ、了解しました」
そのシャカの威圧を感じてタジタジとなった子獅子座の蛮。気圧されたように返事を
して他の聖闘士達とともに宮を通過して行った。
皆が磨羯宮を通り抜けるのを待って、四人は堂室内に入る。居なくなったと思っていた
あの四人組の中の紅一点であるリタが、氷の柱の中に閉じ込められていた。ここまでの
氷を作り出す事が出来るのは、水瓶座のカミュ以外にありえない。
「……カミュの氷、だな」
「間違いない」
「…とにかくリタを助けねば」
それぞれの技をぶつけ、リタを取り巻いている氷を粉々にする。グラりとバランスを崩し
て倒れ来る彼女を、アルデバランが受け止めて床に寝かせた。皆でコスモを燃やし、少し
ずつリタを暖めていく。冷たくなっていた女の肌に生気が見え始め、頬の血色が良くなっ
てくる。
やがて、硬く閉じられた瞼が微かに揺れ、美しい灰色の瞳が現れた。
「……う…」
「起きたか。被ってろ、仮面が今何処にあるか判らんのだ」
アイオリアが自らのマントを取り、リタの頭に被せる。彼女は布の下でモゴモゴとし
ていたが、やがて静かに体を起こして、誰へともなく尋ねた。
「…戦いは終わったんだろ。……何人、死んだ」
「……五人だ」
アルデバランの低く深みのある声が、シンと静まり返る堂室内に響きわたる。残りの
三人は息を殺して彼女をみつめるが、マントの下の表情は窺い知る事ができない。それ
でも、女が軽く嘆息したのは判った。
「…ロスを入れて六人…か……。デス以外は誰だ」
「……アフロディーテ、サガ、カミュ、そして」
そして、シュラだ。
彼等には、彼女の肩が僅かに震えたのが見えた気がした。だが彼女は喉の奥でクツクツ
笑い出しただけである。そしてだんだん笑いが大きくなっていく。
「あーあ、やっぱ、な。あいつ等雁首揃えて死んじまったか。結局サガを守れず、カミ
ュまで巻き添えにしちまって、ザマぁねぇな、あいつ等!! 」
ついに声を上げてあっはっはっは、と笑い出したリタを、周囲は瞠目して見つめる。
シャカすらもが驚きのあまり、半分眼を開いて彼女を凝視している。アルデバランが恐
る恐る女に声を掛けた。
「リ、リタ……? 」
「はっは……、あぁ、そうだ、仮面探すの手伝ってくれよ。あんた等には見られっちま
ったけど、このまま上に行くわけにもいかんしな」
立ち上がって氷の破片と解けた水をどけ、やがて隅に転がっているそれを見つけて顔に
嵌める。罅だらけだが、新しいのを作ればいい。
「リア、マントありがとーな。ホレ」
言いながらバサリという音と共にアイオリアへと投げる。
揺ら揺らと灯りが頼りなく室内を照らす中、リタは四人を見回して言った。
「助けて貰って何なんだが、女神さんのトコにさっさと行こう。皆待ってるんじゃないか?」
唖然としている五人を放って先に立って部屋を出ようとする彼女の背に向かって、
「……どういう、ことだ」
と呟いたものがいた。――ミロだ。振り返った女の仮面を、拳を握り、噛み付くような
視線で睨みつける。
「何がだ」
「――ッ!! 知っていたのか、リタ!! 教皇がサガであったことを! そして、デスマ
スクとシュラ、アフロディーテの三人が、其れを知りながらあえてサガに忠誠を誓って
いたことを!! 」
シャカは目を背け、リアとアルデバランは目を見開いてリタを凝視する。扉に手をかけ
て振り返った体勢のまま、女は身じろぎひとつしない。
やがて徐にミロに向き合い、ツカツカと男に近寄っていく。仮面の下はわからぬ。感情
の起伏すら見えぬ楯。
「知っていたさ」
「!! 」
ギリ、と歯噛みの音がして、真紅の針を宿す黄金の腕が振り上げられる。衝撃に備え
て女は歯を食いしばって目を瞑る。殴られるのも当然だ。自分は彼等を騙し続けてきた
のだから。
しかし、その殴打による衝撃は訪れず、代わりに両の肩を潰れる程の力で握り締めら
れる。驚いて目を開いた時、今にも泣き出しそうな顔を苦悶と怒りに歪ませた男は、搾
り出したような声で唸る。
「何故……何故、俺達に話さなかった!! 」
ギリギリと骨が軋むのが判る。二つも年下だというのに、この力の差はどうだろう。や
はり女は男に力で勝つことは不可能なのだろうか。リタは自嘲して、ミロの両手を掴ん
で無理やり引き剥がす。追い縋るようにくる腕をいなして言い放つ。
「話したところで、聖戦に備えているはずの聖域が混乱しただけだろう? 」
さぁ皆、女神の所まで行こうじゃないか。カツカツと足音を響かせて、女は堂室を出て行く。
両の拳を握り締めてその背中を睨みつけるミロに、アイオリアが言う。
「……今はリタの言に従おう。我々はアテナの聖闘士だ。女神の御元をいつまでも不在
にする訳にはいかん」
そう言いながらもアイオリアの胸中も複雑なものが残る。
サガを守る。カミュを巻き添えに。三人揃って。彼女の言葉の欠片から、それは沸き
立ち、胸中で渦巻く。
彼等は、俺達に何故隠していたのか―――――?
ミロは、それでも納得できなかった。自分とてあの年中組には可愛がって貰っていたの
だ。なのに、なぜあいつ等は自分に何も、何も話してくれなかったのだろうか。
「――というわけですが」
「んー、何ていうか、だな」
考え込むようにして、リタは呟く。ソファに埋もれる様に凭れかかりながら、首を傾
げて腕を組み、天井を見上げ、そして牡羊座と視線を合わせて言葉を紡ぐ。
あいつらの本心は、ただサガの権力に縋って、殺しを正当化する事なんかじゃなかっ
た。守る意義があったんだ。
「――意義、ですか」
「意義ってか、モノ? 守りたいもの」
この十二宮の守護人、だな。灰色の瞳が揺れる。
「そんな中に降臨したのが、アテナだ」
「それは三人から聞いた事ですか」
「私はその時アメリカにいたんだぞ、どうやってその時の事を窺い知るんだ」
「それもそうですね」
カップに少し残っていた茶は、もう熱を失っていた。それを飲み下してリタは言う。
「それからな、あいつ等が秘密を守ってたのは、ロスの願いを遂行したからだ」
「アイオロスの?」
血まみれで帰ってきたシュラが、デスマスクとアフロディーテに言ったそうだ。
ロスの願いを、叶えてやりたい、と。ガタガタ肩を震わせ、感情が宿らぬ目で。表情が
奪われた顔で。
「願い、とは?」
「簡単な事だ。サガを、聖域の皆を頼む、と」
灰色の瞳は真っ直ぐで、そして押し殺した感情が見え隠れしていた。ムウは知らず息
を呑んだ。室内は、耳鳴りがするほど静かだった。
リタは続ける。
「真実を言ってしまうのは簡単だ。そしてお前達はシオン猊下の仇を討ち、サガを殺し
ただろう。サガとて最強を誇った聖闘士だから、ただでは死なない。黄金が、同士討ち
を始めてしまう。それをあの人は危惧した」
たった十四かそこらの子供が、だぞ。
これからまだ始まってもいない聖戦の為に、必要の無い犠牲は無用だと奴は悟ったん
だ。だから、秘密を誰にも漏らさずに逃げる事を選び、追い駆けてきたシュラに、デス
達に総てを託した。
託された側は、ただひたすらに身の内に苦しみを抱えて生きた。そして何故アイオロ
スがサガを自分達に託したかを考え、あいつ等なりの答えを出して納得し、その上でお
前達には何も告げなかった。もしもコレがバレた時に、罪を引っ被って死ぬのは自分達
だけで済むように。
牡羊座は、ただ目を見張るばかり。それから、その美しい瞳を伏せて溜息を一つ。
次に目を開いた時に、彼は微かに笑んで言った。
「ありがとう。胸の支えがおりた気がします」
「私だってそれを理解できていないから放っていかれたんだ。コレは私なりの見解だか
ら、信用はするな。参考程度にしといてくれ」
「ええ。……あのブロンズ像、持って帰りましょう。直せるだけ直してみます」
「へ? お前、そんなことできんの?」
「なに言ってんですか。修復は私の得意分野ですよ」
あ、そっか! と彼女は破顔する。なんか押し付けちゃったみたいで、悪いな。形だけ
牡羊座に謝ると、もともとそのつもりだったんですか? と突っ込みを入れられて、ぐ…
と言葉に詰まった。
ムウが立ち上がり、笑みを溢して彼女に言った。
「また、あの像にまつわる話を聞かせてください」
「りょーかい」
エンタシスの柱に凭れかかって彼女は笑う。彼女は強い。
誰にも泣き言を言わない。でも、弱さの片鱗を見せる。
ムウが去ってリタは空を見た。青さは変わらずに、突き抜けていきそうに広がる。雲が
空を滑って、風がそよそよと吹いていくのを感じて目を閉じる。
『これ、なんかお前に似てる』
『あたしが太ってるってのか? 』
『違うって。危なっかしくも地に脚つけて立ってるのが、な』
闇を溶かした色の瞳が細められて笑う。屈託の無いソレは、もう二度と見ることは敵わ
ずに。思い出はとめどなく流れる。瞼の内の世界は色あせることなく其処に広がる。
なぜなら、つい一週間前まで彼等はこの大地の上でともに歩き、笑っていたのだから。
強い日差しが照りつけて、中は対照的な青い影で覆われて冷やりとする。柱に凭れたま
ま座り込んで、彼女はいつまでも其処から見える景色を見つめていた。
[0回]
PR