海王ポセイドンがアテナの手によって再び封印された。
双方沢山のものを失い、それでもこれから互いに先を見据えて生きねばならぬ現実に、リタは
皮肉気に笑んだ。あの海王によっておこされた戦は、今の聖域の戦力の低下をまざまざと見せ
つけられるものであったからである。
黄金の五人は聖戦に備えて聖域の天辺でお留守番。
リタは、またもや何も出来ずにただ見つめる。見つめる事しか、出来なかった。そして彼等の帰
りを待ちながら、あの時の事を思い出しては己を攻め続ける。何故止められなかったのか。
何故カミュがいる事に気付かなかったのか。何故、シュラの黄金聖闘士としての役目を理解出
来なかったのか。そして、気付くのが遅すぎた。あの三人が、如何にサガとロス、そしてその他の
仲間の事が大切だったのかを。
海底から帰還したアテナと青銅達を出迎え、女神は速やかに休ませて、年若い聖闘士達をその
まま故郷へ帰した。彼等は十分に闘ったからだ。老師もそう言っていた。彼等に安寧を、と。聖域
は一時の平和を貪り、その一日一日が来るべきものへの道を踏みしめていた。
リタは住処を聖域頂上に改めさせられた。アテナがリタの様子を見て心配したからだ。獅子座や
蠍座に聞く限り、彼女――南十字星のリタ――はいつも何事もなかったように明るく振舞っている
が、一人になったときの彼女の様子は、見ていられないらしい。いったい、どのような状態なのだろ
うかと宮を尋ねた事があった。
突然の女神の来訪に驚きながらも茶を入れてくれた南十字座。しかし、彼女は山羊座が使って
いた執務室にはおらずに自分にあてがわれていた嘗ての部屋で執務をこなしていた。女神が入っ
てきたのを感じ取ったからだろう、顔は明るく笑っていたのだが目は澱んだままである。故に彼女は
リタに移動を命じた。
何より女神が驚いたのは、教皇宮で宛がわれた堂室に彼女が移動してきた時の殺風景さであった。
「随分と…広々としているわね」
「もともと持っているものが少なかったもので」
広々とした堂室にパンドラボックスと古ぼけたトランペット、そして小さな鞄。中には必要最
低限の物のみ。あまりの荷物の少なさに女神は絶句したものだったが、やがて気を取り直して彼
女はリタの部屋にアレコレと物を持ち込み、今では普通の人の部屋くらいになっていた。女神が
部屋に物を飾る時の無邪気さにリタが呆れたほどである。
悲報は幾度となく続くものである。
デスマスクの弟子である盟が、祭壇座のニコル、六分儀座のユーリと共にイタリアのシチリア
で起こったテュポンの事件により散った。悲しかったが、盟が髪の毛座の聖闘士になれたと聞い
て、安堵した。デスマスクによる修行はちゃんと実を結べたのだ。
再び少しの平安が続く。まだ本当の悲劇は、始まってはいなかったのだ。
聖域の聖闘士達の慰霊地。
教皇シオン、アイオロス、サガ、デスマスク、カミュ、アフロディーテ、そしてシュラ。並ぶ墓
標はあれど、体がその下に無い者がいる。アイオロスは聖域の外で死に、デスマスクは体ごと黄
泉へ、シュラは空高き所で塵になった。歩く度にさくさくと音を立てる大地に、岩にそっけなく掘ら
れた名と称号だけの墓標。土地の隅のほうに、盟とニコル、ユーリの墓が先の者達や、他の白
銀聖闘士達と同じように新しい石で作られていた。
「……よぉ、リタ」
先客がいた。くるくると跳ねる長い金髪。蠍座を守護星座にもつ十二宮が一つ、天蠍宮の主。水
瓶座の墓の前に立っていた男の手には小さな花がいくつか。他の墓の前にも置いてある。珍しい
ものだ。あの男が花、とは。
「誰も墓参りなんぞに来ないだろうと思っていたからな。何もないのは寂しかろうと思って」
少し照れながら言うこの男はまだ齢二十歳にしかならないはずだ。自分はそれより二つ年上であ
るが、不憫に思えてくる。ミロはあいつらに可愛がられていたことを記憶の底から引っ張り出す。む
こうからは風に靡く己の髪のせいで表情などは見えないだろうが、軽く笑ってやった。
ミロがフイ、とリタの横を通り過ぎながら呟く。
「ここはシケる。海へ行かないか」
「……そうだな、行こう。奴等には辛気臭い墓碑なんかよりも海が似合ってる」
二人して石段を降りて行く。何時になく、強い風が聖域を撫で付けていた。
スニオン岬が視界の端に見える海岸。あの岬の下に、カノンは閉じ込められていたという。普通の
人間ならば潮の満ち干き一回であの世行きだったろうが、そこは常人離れした双子の片割れ。しぶ
とく生き残っていた。女神の加護のせいもあったろうが、彼の根性も並外れていたのだろう。
裸足になって砂浜を歩く。点々と続く足跡を波が洗い流し、砂がサラサラと流れて埋める。近くの
別の浜は現在、沢山の観光客でいっぱいの筈だ。だがここは、神のお膝元ということもあって誰も
立ち入りを許されていない。許されるのは聖闘士や雑兵、女官。そして神自身。
リタの視線は遥か沖。思い出が溢れんばかりに詰まるこの浜で潮騒と共に打ち寄せる波に飲ま
れながら立ち尽くす。思い出すことは沢山で、次から次へと走馬灯のようにシャッターで切り取っ
たようなその一瞬一瞬が駆け巡り、通り過ぎてゆく。
笑い声や笑顔、彼等の良く鍛えられた肢体。狭い浜ではあったが、サーフィンやライフセイバー
ごっこ、トライアスロン、果ては西瓜割りまでやった。沢山の思い出達。あまりに新しすぎる、思い出。
いつか、燃えるように沈み行く夕日を眺めながら彼等はミロに呟いた事があった。何時になく真剣
な面持ちで、まるで血の色に染まったような海を見つめ、三人は独り言のように言ったのだ。
何があっても、お前はお前の道を行け。決して、振り返るな。
その時は訳も分からずミロは頷いていた。彼らの隣でリタは静に笑っていた。その言葉の理由が
分かった今では既にもう遅い。知った時はたまらずリタに怒りをぶつけ、彼女は静かな姿勢でそ
れを受け止めた。
その後、彼女はまるで何も無かったようにしていたが、ミロは後で自分の行為を恥じた。
「リタは、全て知っていたんだろう?」
あいつ等が全てを引っ被って生きようって決意してた事を。隣に立つ彼女を青い瞳が見つめる。
だが、その真っ直ぐな瞳に灰色を基調とした不思議な色合いの双眸は優しく否定を主張した。
「上辺だけ、だ」
「うわべ?」
「そう……上辺だけ」
あいつ等が、守ろうとしてたのはそんな綺麗事でできた理由じゃなかった。もっと、魂に定められ
た宿命と、己の意思に従った結果だったんだ。今は奴等がいないから、確か模様もないけれど。
突如吹く風に、焦げ茶と黄金の髪が揺れる。髪を押さえながら女は一度ミロを見て、また視線を
海に投げて、続ける。
「あいつらは、あいつらなりに守ったんだよ」
「カミュは……、ならばあいつは何を守った」
「何も知らなかっただろうさ。きっと」
「?」
「全てを狂わせたカミサマってのに、喧嘩を売ってたんだよ。あたしたちは」
「………」
「私は9年前、シュラ達の仲間になった。それはたまたま私がロスとリアを知っていて、シュラが殺
したジュドーに育てられた聖闘士だったから」
だから、カミュはきっと何も知らない。ただシュラの頼みを聞き入れて私を氷に棺に閉じ込めただけ。
そしてあの子は弟子である氷河に全てを伝えるべく己の命を張って戦ったんだ。あの子は十二宮の
戦いを重んじ、それを尊重し、それに殉じたんだよ。
リタは言いながら浜に靴を投げ捨ててずんずんと海に入っていく。たくし上げたジーンズの裾も何
もかも、腰まで海に浸かって、波に負けそうになりながら立ち、それでも遠くを見る。
その手には何処で摘んできたのか、白い、綺麗な花。
「全て、海に託してしまえたらいいのに」
「…………海へ、か」
「海は全ての母だ。だったら、すべてを帰すのも海だろう?」
「それも、そうだな」
俺も付き合おう。ミロはそう呟いてリタの隣まで歩んでくる。澱みない歩みで、真っ直ぐに。
そして何時までも沖を見ていた。彼女の手から、波に攫われて花が流れていく。それは、
どこまでもどこまでも遠くまで運ばれていって、やがて見えなくなった。
空は抜けるように青く澄んで、
海は留まることなく、波を浜へ打ち上げ続ける。
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