階段を駆け登りながら、山頂におわす大いなる小宇宙を感じていた。その小宇宙は、
偉大さを見せつけながらも優しさを醸し出していて、我等のアテナだと思い知らされる。
神としての威圧。それがアテナの、アテナたる所以だ。
最も、既に俺は彼女への反旗を翻している身なのだが、それは周囲を走る二人も同
じことであり、今更後悔しても遅い。
女神の傍に居る三つの小宇宙。一つは蠍座だろう。何故か小宇宙を燃やしている。
もう一つは前を走る双子座にそっくりな印象を受けるそれ。やはり彼等が双子である
からか。
そして。今でも氷の中なのだろうと思っていた、あの女の小宇宙。普通ならば傍に
大きな小宇宙がいれば感じ取ることは不可能であるはずなのだ。だが、彼女のそれは
異彩を放ち、明確にその存在を告げてくる。
己はここにいるぞ、登ってくるがいい。
「気になるか、シュラよ」
視線は先を見たままで、隣の赤毛が聞いてきた。黒く光る冥衣に赤毛が映える。当
のシュラは、そうかもしれない、と肯定する。サガの苦笑する気配がした。水瓶座は
片眉を上げただけで何も言っては来ない。
それにしても、こんなに此処の階段は長かったろうか。この九年ほど、飽きるほど
上り下りしてきた。なのに、何時までたっても次の巨蟹宮が見えてくる気がしない。
いまだにあの双児宮の迷路に迷っているかのような気がした。
JIHAD 02
アテナの像の前。三人の人間がいる。
一人はこの世に降臨した女神、もう一人は海底より女神への恩返しと聖域に戻った
双子座。そして、冷静な表情を保ったままイライラし続けているのは南十字座だ。
シャカのお返しとばかりに送った天魔降伏によって、巨蟹宮で消えた三人の小宇宙。
女神は心配そうにカノンを見たが、彼は静かに笑んで言う。
「サガ達はシャカの技で消えてしまったようですが、少し様子を見たほうが良いかも
知れません」
「気配を絶ってるかもしれないですしね」
あいつ等ならやりかねません、とリタも同意する。ゆるく風が吹き抜ける。アテナ
のライトブラウンの髪がその風にもフワリと舞い上がった。
と、獅子宮から小宇宙の念が飛んできた。勇ましい小宇宙。奴にはエルガーの威風
堂々、第二楽章が似合う。
『アテナ、今冥闘士数人を獅子宮で止められずに通してしまいました。申し訳ござい
ません』
『良いのですよ、アイオリア。それより、聞きたい事があるのです』
『は、』
『リア。黄金聖闘士三人の気配が通過した奴等の内に無かったか? 』
南十字星が念話に乱入して続ける。その言葉に、相手は明らかに動揺したようだ。
念波が揺れるのを感じた。獅子座は驚いたように彼女に問う。何故わかる、と。
「やはり。中に紛れ込んでるんだな、あいつ等は」
「サガの考えそうな事だけどな」
「だが、いちいち黄金聖闘士と闘うよりは効率がいい」
うん、と頷きあう。憂いを反映したような色の空に星が幾つか流れている。その星
は儚くも美しい。獅子座が、何を悠長に喋ってるんだ、俺はとりあえず追い駆けるか
らな! と言って一方的に通信を切った。せっかちさに苦笑しながら女神と顔を見合
わせる。
「いかにもリアらしい。貴女に挨拶する事さえ忘れていきました」
「フフ」
クスクスと笑う女神は、はたと気付いたように言った。星矢の呼び声が先程どこか
らかきこえたのだが、と。カノンとリタは互いの顔を見て首を傾げる。それから思い
ついたように南十字星が呟く。
「あ、そういえばさっき、麓に星矢が来て、ムウが奴さんをどっかに飛ばしてたな」
「お前な。先に言え、そういうのは」
コツンと頭に軽い裏拳。
痛いな、と冗談交じりに笑っていると、少し申し訳無さそうに女神がリタに問う。
「それから、こんな事を聞くのは変かもしれないけれど、許してね、リタ。…久々に
会う彼等の小宇宙の感覚はどうですか? 」
「は…、禍々しいです。あまりにも。もとのままだとは言えません。自分の感情をま
だ片付けられていないせいかもしれませんが」
「前はもっと清廉だったのか? 」
今も昔もさほど変わらんように感じるがな。双子座は呟く。あんたが穢れてるから
一緒のように感じるんだろうよ、と無駄口を叩いて三人で笑っていた、その時。
三人は感じた。シャカの心の怒りを。その波動を。
「!!! 」
リタとカノンは同時に視線を交わし、女神を見遣る。女神の大きな瞳は不安と悲し
みに揺れていた。南十字座は彼女のまえに跪いて言った。
「アテナ、彼等を止めに行きます! 」
「駄目ですリタ、ここでお待ちなさい。もともと貴女が此処に居ると言ったのでしょ
う? 」
「しかし、奴等とシャカが戦っているのに指を銜えて見守るなんてできない! 」
「落ち着け、リタ」
「んな事できるか!! あの四人が闘えば、ビッグバンは必死だ! あいつ等が消える
ところなんてもう見たくないんだ!! 」
それまで冷静だったリタは、シャカが彼等と戦い始めたのを感じ取った瞬間に、人
が変わったようにアテナに己が山頂から下る事を懇願し、それが叶えられないと知る
や身を翻して双魚宮につながる石段を駆け下りていった。
いつもはすぐに麓まで走り抜けるのに、どうしてこんなに体が重いんだろう。どう
してこんな事態なのに、気分が浮かれているんだろう。アルデバランが殺されてしま
ったというのに。生きるために冥闘士に成り下がり、女神に仇なしている彼等を聖闘
士として許せるはずが無いのに。
激しい戦いが処女宮脇で繰り広げられているのがわかる。一人に三人。タイマンを
張るのが聖闘士としての誇りであったのに、彼等はそれすらかなぐり捨てて闘ってい
る。やがて、シャカの小宇宙が最大限に燃え、彼は最大の奥義を放つ。
――――天舞宝輪。
それに対抗する術は一つしかない。一つ、また一つと感覚が奪われていく中で、双
子座、水瓶座、山羊座の三人は禁断の闘法を放った。
己の波動が崩れる中、頂上から駆け下りて来る小宇宙を感じたシャカ。仕方ないな、
と軽く笑む。間に合わなくて良かった。さもなくば彼女はまた、悲嘆に暮れる。しか
し、己はまだ消滅するわけにはいかない。――女神に、あの言葉を託すまでは。
天舞宝輪とエクスクラメーションのぶつかった衝撃波は、沙羅双樹の花園から麓、
頂まで全てに走り渡り、数多くの建物に罅が入り、中には倒壊したものもあった。
石段を駆け下りていたリタにもそれは平等にあたる。風圧に弾き飛ばされそうにな
って尚、無理やり人馬宮にたどりついた。中を走りぬけながらチラリと剥がれた壁面
を見遣る。
アイオロスの遺言ともいえる、その言葉。
ここを訪れし少年達よ きみらにアテナを託す
「託す、って重い言葉だよな、ロス兄」
シャカの小宇宙が消えてゆく。涙はもう流さないと幼い日に決めた。だから心の中
で泣いている。血の涙を流して泣いている。ムウの念話を思い出した。
―――彼等の魂は血の涙を流して慟哭している、と。
更なる胸騒ぎを抱えて、そのまま一気に天蠍宮へと急ぐ。長い階段は、まだまだ処
女宮への道のりが遠い事を示していた。
その頃、処女宮。
ミロが怒りの鉄拳ならぬニードルを繰り出して、三人を宙から降らせていた。
「ミロ! 勝手に天蠍宮を出てきたのか!? 」
「シャカが殺られたというのに、これ以上天蠍宮でのんびりと待っていられるか!! 」
そして、倒れ付してうめき声を上げる三人を睨めつけながらニタリと笑む。
「要はこの三匹を片付ければ総ては済むのだ」
折角リタと共に貴様等の死を悼んだというのに。このザマは何だ!! あれほどアイ
ツに辛そうな笑顔をさせておいて、今度は女神の首を取ると?! シャカが死んだとい
うだけでも彼女の悲しみは深いだろうに、貴様等はこれ以上アイツを悲しませるのか!!
「直ちにこの俺が片付けてくれる!! 」
言葉と共に衝撃を放つ。彼等に対する怒りを込めて、彼等に対する悲しみを込めて。
三人は成す術なくその衝撃を受け続ける。しかし彼等三人は止まらない。止められな
い。またしても三位一体の形態を取り、この場所を突破しようとしてくる。気力だけ
で立っているとはとうてい信じられない強靭さだ。
信じたくは無いのだ。信頼していた親友が、幼い頃から慕っていた兄のような二人
が、黒く輝く冥衣を纏ってアテナに反旗を翻すなどと。昔の平穏だったあの聖域を取
り戻そうとした結果がコレなのだろうか。女神の首を取って永遠の命を貰う事が、平
穏であった日々を取り戻すと?
どんなに過去を振り返っても、二度とあの日は戻ってこないと言ったのはお前達で
はないか。だから此処に生き残っている者達は皆、前のみを見つめて生きようと必死
に努力してきたというのに。
「サガよ、何か忘れてはいまいか」
「こちらとて黄金聖闘士が三人いるのだぞ」
これ以上、こいつ等を進めてはならん。リタに苦しみを背負わすのはもう沢山だ。
サガよ、カミュよ、シュラよ。死した後に聖闘士であった証を剥奪される罰を、俺達
もあえて受けよう。もう苦しみをお前達だけに背負わせて知らぬ顔などはしたくない
のだ。たとえ冥闘士となった今でも、シャカを殺したとしても、
お前達は共に生きてきた兄弟なのだから。
天秤宮を抜けようとしたときに、またしてもあの衝撃波が襲ってきた。今度は二つ。
しかも、正面衝突をおこして力が真ん中で拮抗している。
リアやムウ、ミロがあの三人に対してやっているのか?! さっきの胸騒ぎはこれだ
ったのか! 誰も、死なないでくれ。どうかこれ以上、血の涙を流さないでくれ!!
心の内で今までギリシャ系以外は信じたことなど無い神に祈る。だが、願いも空し
く彼等の拮抗している力の片方に何者かが介入し、サガ達が押され始め、やがて吹き
飛ばされようとした。
その映像が、石段を下っていたはずのリタには何故か見えてしまった。
「―――――――っ!!!! 」
女の言葉にならない叫びが空に響き渡る。
すると不思議な事に、凄まじい爆発の中、その中心にいた者達全員の前に薄い膜の
ようなものが現れた。しかし、誰も気付かずに衝撃と光に一瞬で意識をとばしていった
のである。
「ッ痛…」
天秤宮の入り口の柱の根元でリタは呻く。今度ばかりは弾き飛ばされてしまい、強
かに頭を打った。ヘッドギアを着けていなければ今頃自分の頭部は鴉に嘴を突っ込ま
れた西瓜のように弾けていたに違いない。頭を摩りつつ起き上がる。後頭部に痛みが
残るほかは何処にも異常が無いようで、安堵の溜息をつく。
そして直ぐに処女宮へと階段を駆け下りようとした時に、強い小宇宙の念話が脳を
貫通していく。
―――アテナ?!
彼女が言うには、彼等を神殿まで連れて来るように、と。それ以上彼等に手出しは
無用と。正直ホッとした。これで彼等を武力で撃退しなくてもよくなったのだ。それ
よりも、早く彼等を女神の元へ。
…会いたい。会って言葉を交わしたい。あんな別れをしてしまったのだから。
「……何人か、いるなぁ」
階段を下りようと脚を踏み出しかけて、リタは呟く。
黄金の輝かしいばかりの強大な小宇宙の背後に、微かにしか感じられないが、確かに
いる。サガ達以外の冥界の闘士達が。
石段を駆け下りて、処女宮の前に立った。既に瓦礫の山と化していて、あの壮麗な
宮は跡形も無い。丁度、アイオリア達は三人を担いで出てくるところだったようで、
目を見張って此方を見てくる。
「勝手に降りてきたのか?! 」
「ミロ、あんたもそーだろうが――カノンが行ってもいいと言ったから来た」
しゃあしゃあとすまして嘘をつく。
「アテナの警護は! 」
「だからカノンがやってる! 早く三人をアテナの元へ! 残り四時間切ってるんだ
ろう?! それまでに仕えるはずだった主に対面させてやるのがこいつ等に対して、せ
めてもの情けになるだろう」
頭痛が残っているので顔を顰めながらアイオリアに言う。三人はハッとしたように
其々が抱える人間を見た。カミュの頭が軽く上がり、焦点の定まらぬ目でこちらを見
ている。サガの瞳は軽く見張っていた。
『リ…リタ…? 』
『何故……? 』
最後の黒髪は薄らと目を開け、視覚の失われた目で真っ直ぐにリタを見た。どの道、
彼女は仮面を着けているから表情など見えないが。肩を竦めて三人に小宇宙で告げる。
『冥王の走狗に成り下がったとはいえ、一度還ってきてくれた事は嬉しく思う。最後
の褒章だ、女神への拝謁を許そう。アテナの御顔、有難く拝ませて貰え』
「…」
禍々しき小宇宙を纏う三人は目を見張る。動揺しているのがありありと伝わる。
「ほれ、さっさと行けって。アテナがお待ちかねだ」
三人が三人を其々背負って、石段を駆け上がっていく。それを見送って彼女は石段
に腰掛け頬杖をつき、誰ともはなしに呟いた。
「コソコソ隠れてないで出てきたらどうだ? ――まぁ、私がてめぇらを通す道理は
無いがな」
「黄金聖闘士でもない奴が、しかも女が此処を守ると? 冗談は程ほどにしろ」
「我等冥闘士に敵うと思うてか!! 」
リタの声に応答するかの如く、黒き戦士達が現れる。ざっと七、八人。
「弱い犬ほど良く吼える――ホレホレ、遊んでやっからかかって来い」
頬杖をついていた腕を軽くあげて、己の背後に大きな壁を作り出す。
そして、フラリと立ち上がり、挑発するように左手を真っ直ぐ伸ばし、“かかってこ
い”と掌を上向きに四本の指を上下に動かす。
挑発されたのかどうかはしらないが、先頭に立っていた冥闘士が突っ込んでくる。
その体裁きがあまりになっていないのに呆れた。
「そんなんで冥闘士やってんの? 冗談キツイよなぁ」
軽くいなして背後に回り、背中を飛び切りの力で蹴りつける。吹っ飛んだ奴に光速
で追いついて、脚を引っ掴み、立ち止まった自分を軸に遠心力を使って回転し、他の
奴等に向かって投げつける。丁度いい具合にドミノ状態になる。
人間ドミノかぁ…、そういうのって結構危なかった気がするけどまぁ、相手は冥闘士
だしなぁ。とくすくす笑っていると、彼らは咆哮をあげながら技を繰り広げてくる。
それにいちいち付き合っていたらこっちの身が持たない。しかし、久々の殺し合い。
命の遣り取り。否応無しに体が弾む。血が沸き立つ。既に狂っているのだろう、と冷
静に悟っている自分が居る。
かわせる技はかわし、避けきれないものは無理やり防御して受ける。たまに、奴等
の一人を楯にする。途中、青銅が何人か階段を駆け登っていった。
「手伝おうか?! 」
「いらん! かえって邪魔! 」
という言葉を交わしたばかりだ。
トントン、と踵でリズムを刻んで、三つ目を打った瞬間に一番手近にいた奴の背後に
まわり、冥衣の裾を引っ掴む。背後から一気にスープレックスをかました。
「あはは、楽しいなぁ、おい」
まるで悪者のような口調で語る彼女は一応聖闘士だ。
しかし、その時。まさに、その一瞬だ。
アテナの、小宇宙が、消えた。
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