ある日君は僕を見てわらうだろう
あんまり蒼い顔をしているとて、
十一月の風に吹かれている、無花果の葉かなんかのようだ、
捨てられた犬のようだとて。
まことにそれはそのようであり、
犬よりも惨めであるかも知れぬのであり
僕自身時折はその様に思って
僕自身悲しんだことかも知れない
それなのに君はまた思い出すだろう
僕のいない時、僕のもう地上にいない日に、
あいつあの時あの道のあの場所で
蒼い顔して、無花果の葉のように風に吹かれて――冷たい午後だった――
しょんぼりとして、犬のように捨てられていたと。
中原中也 未刊詩篇 「曇った秋 1」
結局彼女が棺から解放されたのは、全てが終わってしまってからであった。
聖域に雨が降る。
ギリシャの大地を湿らせてゆく天からの水は、パラス=アテナの涙に例えられる。
リタは宮の入り口から外を眺め、なかなか止みそうにない天の涙を見つめ続けていた。
その瞳はかつての快活さを失い、ただ目の前のものを受け取って流すだけの呆然と
した物と成り果てていた。
聖域での戦いが終わってなお、磨羯宮でリタは暮らす。その主がいなくなった後もこ
こにい続けているのは、女官達が此処にいてくれと彼女に拝み倒したから。
どうか教皇の間ではなく、此処でお仕事をなさってください、リタ様がいない宮など寂
しすぎるのです、と。十二宮の戦い後、彼女はこの宮の庶務は勿論、他の主無き宮の
管理まで女神に押し付けられた。
アテナが聖域の頂上に帰ってきた時、聖域の頂上の女神の神殿においてまだ齢十三
の少女は開口一番にリタに告げたのだ。
「貴女の力が必要なのです」
それに、と女神は続ける。ここの事はあなたの方が詳しいでしょう?リタ。笑顔で言わ
れれば反論の余地も無く。ただ一人ここでアテナの付き人兼、無人の宮の管理人とし
てこの地に根付いているだけの。ただの白銀聖闘士。
その日一日中雨は止むことなく降りしきり、上と下に続く石段に小さな小川を作りなが
ら流れ落ちていった。その様を見つつ、行く川の流れは絶えずして、などと日本文学の
一つの冒頭を暗唱してみたりするが、それは執務にまったく関係の無い事である。
徐々に雨脚は弱まり、暗くなる頃には雨はすっかり止んでいた。宮からふらふらと出
て下へ通じる石造りの階段に座って、麓を見る。村や聖闘士達の家から灯りが漏れて
いるのが点々と見えた。
そこへ、自分の名を呼ぶ女官の一人があらわれた。ちょっと気分転換してくる、と言っ
たきり、執務室から姿を消して月が顔を出しても帰らない自分を心配してくれていたよう
で、安堵した顔で小走りに駆け寄ってきて自分に話しかける。
「リタ様、そろそろお戻りになりませんと」
「……分かってる。けど、もう少しだけ、見ててもいいかな」
情けないとは思う。いつまでぐだぐだと悲しんでいるのだろう自分は。サガ達が居なく
なった今、彼等の分を補わなくてはいけないのに。本当に、いつまでズルズルと引き摺
ってしまうのだろう。こんなに弱い人間であったつもりは無かったのだが。
「では、お茶を用意して待っておりますので」
「……すまない」
逃げている自分を容赦してくれる彼女等には本当に感謝している。でも、自分は自分
を許す事ができていない。氷柱から助け出して貰ってから、一度たりとも。
やおらに彼女は立ち上がり、麓に続く石段を一段一段、ゆっくりと降り始めた。自分が
居候している建物から、抜け出してみたくなったのだ。否、正確に言えば違う。嘗て共に
暮らしたあの人の空気から、逃げ出したかったのだ。
あの、真っ直ぐな瞳、漆黒の髪、聖剣と呼ばれる両手足。鍛え抜かれ、美しいとすら言
われた程の肢体。その存在が消えようと、この宮に染み付いた気配が彼女を苛むのである。
お前達は、何も知らずに笑っていた自分を、罪をともに被るつもりでいて、何の覚悟もしてい
なかった私を、笑っているだろうか?
何時まで悩んでも出口が見えぬその思考は、双児宮の迷路すら凌駕できるであろう。そし
てぐるぐると考えながら石段を降りているうちに、いつの間にか人馬宮までたどりついていた。
『俺達は、運命と共に生きる事を選んだ。これ以上、犠牲を出さない為に。罪を着せないた
めに。お前が今まで親しくしていた人間達とも離れなければならないが、お前はそれでも、
ついてこれるか?』
『血みどろの道だ、無理はしなくてもいい。だが、これから言う事を聞けば、リタ、君はもう後
戻りすることはできない。』
『……さぁ、どうする?』
『どうしてもサガを止めたいのなら俺を殺して押し通れ。……できるものならばな』
『時を守れ、時を留めよ、時へ還れ、そして、時と共に滅せ。コレが俺たちの信念だ』
古びた映画みたいに思い出が巻き戻っていく。冷たい六つの瞳から放たれる視線、無機質
な顔。けれどその心は、いつもいつも血の涙を流していたのに。それにすら気付かずに己は
彼らの間でただ笑っていた。
唇の端を、皮肉げに吊り上げて笑う。愚かな自分に。
随分と下って来た。ここは何処だろう。蓮の華が見えるということは、恐らく処女宮なのだろう
が、生憎主の気配はない――と思ったが違った。自分の背に声が掛かったのだ。
「どうしたのかね、もう随分と遅いはずだが」
そんなに時間が経っているなんて思いもしない。彼女は首を傾げてこの宮の主を振り返る。
サリーのようなインドあたりで頻繁に着られているものを纏った彼は、まさに神に近き者という印
象を与えた。おぉ、シャカじゃないか。
かつてのような覇気が感じられぬ彼女の有様に、シャカは溜息をついた。………全く。
リタの顔をひたと見据える。――いや、瞼は閉じているのだが。
「君が眠れていない事は判っている。―――着いて来たまえ」
見開かれている瞳を尻目に、乙女座は宮の脇にある大扉を開け放つ。重い音を響かせて、
扉はその向こう側の景色を二人に見せる。
大きな樹木が二本聳える、美しい花園がそこにあった。
「うわ、すご……綺麗な花園……」
「沙羅双樹の園だ」
「ここが、あの?」
振り返ると、目を閉じたままの男は微かに頷き、サクサクと草を踏み分けて歩いてゆく。手に持っ
た百八の珠を繋いだ数珠が風に揺れる。ついて行くべきかどうか迷うリタを振り返り、手を招く。
彼女を連れて大きく聳える樹の下まで歩いてゆく。花園の花たちは、風に軽やかに揺れ、
舞うようにして花びらを散らせる。
「花の景色は、気持ちを落ち着かせる。―――まだ、己を責め続けているのか、リタ」
「…知ってたのか?」
「薄々。―――教皇がサガだというのは分からなかったが、デスマスクの宮の顔が急に増えた
のは変だとは思っていた」
それに、いつからかお前の笑顔は硬くなった。かつての柔らかさが嘘のように。青白い顔をし
たままで花園を呆然と見つめるリタに、心のうちで呟いた。お前以上に、彼らは私にとっても
大切な人であったことを、お前は知らぬであろう。
徐に座禅をする。
リタが何をするのか、とでも言うようにこちらを見た。薄らと目を開けて、シャカは笑む。
「経を上げる。聞いていきたまえ」
低く、単調な声で、仏に唱える言葉。祈りの言葉、学びの言葉、感謝の言葉。そのシャカの
声は風に吸い込まれて、空で拡散するかのように流れてゆく。
女は、それに丘の上で立ったまま耳を傾ける。風が総てを躍らせ、彼女の髪もシャカの髪も
揺れ、巻き上げられるようにして、舞う。
荘厳な景色であった。
やがて、経を上げる速度が落ち、ゆるりと終焉の言葉が紡がれる。
シャカの顔を覗き込んでリタが笑った。
「すごい、何か感動した」
「―――辛いか、リタ」
「…?何故?」
「……人は、辛い時にこそ精一杯笑うものだからだ」
「――――っっっ」
灰色の瞳が目一杯に見開かれる。何故分かる、とその瞳はシャカに問う。シャカは目を開き、
真摯に彼女の瞳を見返す。不意に、女の目から涙が零れ落ちた。
リタがこの聖域に来て九年、一度も涙したことが無かった彼女が、泣いている。
「っかしいな、もう、泣かないって、決めたのに…」
「見なかったことにしよう、此処で泣いていけ」
そういって乙女座はリタを座らせてその頭を己が肩に押し付けた。肩の布がジワリと暖かく
なる。肩を震わせて、声を立てずに女は泣く。
その様を、二本の沙羅双樹はただ己の葉をたゆたわせながら見下ろしていた。
やがて、顔を離したリタ。目元が少し赤い。
本当に笑って、シャカを見る。
「悪ぃ、肩の部分濡らしちまって……」
「落ち着いたか」
「おぅ……すっごいなんかスッキリした。サンキュな、シャカ」
スッと立ち上がる。
夜空には月がぽっかりと浮かんで、自分達に光を投げかけている。
そして、花園を二人して出て行く。
処女宮にリタが先に入った後に、シャカはゆっくりと花園を振り向いて、呟いた。
「ちゃんと聞き届けたかね?彼女の嘆きを」
さやさやと、木の葉の擦れる音が、何時までも続いていた。
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