ぴんぽーん
玄関のチャイムが鳴る。そんなに広くは無いが、そこらへんの大学生よりはましな大きさの部屋のソファで仰向けに寝転がっていたサッチはむくりと起き上がると、時計を覗き込んだ。休日の午前1時。こんな時間にここに来るなんてあいつしか考えられない。
「サッチー」
大学で飲み会でもあったのか、目元を薄らと赤くそめたエースがそこに立っていた。へらへらと笑う姿を無性にどつきたくなるのは気のせいだろうか。一瞬思いっきり引き攣りかけた口元を無理矢理笑顔に変えて、今日はどうしたんだエースと聞いてやった。
「あのなー、終電逃した!」
ですよね聞いた俺が悪かったほんともうなんていうかさ、頼むから人の家を臨時の休養施設にするのやめてくんないかなほんと。という言葉が頭の中を一瞬で駆け抜けて行ったがそれは目の前に立っている人間には通じるはずのないものである。あいかわらずへらへらと笑うエースに、横から手が入った。
「エース、無茶振りしすぎだろどう考えても」
見るとそこにたっているのは同じ黒髪の、目の隈がすごくひどい不健康そうな男。こいつの同級生なのだろうか。呆れた様に、おい大丈夫かさっきから返事してねぇぞお前、とエースに話しかけているがどうみたってお前のほうが心配だ。体調大丈夫なのかといいたい。
とりあえず玄関口でうだうだ言っていても仕方ないので、部屋に招き入れる。エースが結構な千鳥足なのに対して黒髪の青年、名をローという彼はまったく足取りもふらつくことなくお邪魔しますと靴を脱いだ。
「つっても、いきなりこられても布団らしいもんはないがかまわねぇか」
「あぁ構わない、寝転ぶ場所があるだけありがたい」
すまなそうに頭を下げるローの横でけたけた笑っているエースを眇めてからサッチは、とりあえず冷蔵庫から水のペットボトルをとりだしてエースに握らせる。溢したらおまえ、給料天引きだからなといい含めるとそこだけはしっかりしているのか、素直に頷いた。
「で、お前はエースの同級生かなにかか?」
「あー、同じ大学の、学部違いなんですけどね」
ソファにぺたんと座り込んでいるエースをよそにローテーブルを挟んで二人で茶を飲みながらしばし会話する。聞くところによると、ローはエースと知り合ったのはつい最近らしい。エースはその類稀なるコミュニケーション能力で人をひきつけるが、ローは反対に人から遠ざかる傾向があって、しかしそんなもの関係ないと、エースは笑い飛ばしたのである。
「気がついたらいつもつるむようになって」
「へぇ」
煙草、いいか?と聞くと、ここはアンタの家だろう、関係ないと笑ったローは、ふと部屋の壁を見渡した。サッチは多趣味な為様々なものが雑多に置いてあるが、とりわけ多いのが海に関するもの。例えば海の生き物の写真や、海の中から水面を見上げた構図の写真、シムシメールやラッセンの絵画が壁にかかっていたり立てかけられたりしている。
「海が好きなんだな」
ふと笑うその表情はなにかどこかで見た表情と一緒であることに瞬時に気がつく。しかし問い詰めたところできっとこの目の前の男は何も言わないだろう。そう思って、サッチはあぁ、と首肯した。
「海を見ていると、いつも苦しくなるってエースが言っていた」
「なんだ、アイツ溺れたことでもあんのか」
「いや」
かすかに首をふったローは、ベッドに腰掛けているサッチを意味深に見る。アンタはそんな経験ないのか。海をみて、なにか焦燥にかられるようなこと。急に尋ねられたので戸惑いながら煙草をぷかり、と吸い込んで自身を省みる。
「海はすきだぜ?山奥で生まれたからかしらんが、妙にテンションがあがるしな」
「そうか」
ずず、と茶をすする音。沈黙がおりた。
ちらりとエースを見ると、エースは何か遠くをみるように笑っている。懐かしいなぁ、とその口が小さくかたどったのを、サッチは見逃さなかった。
「エースは」
ふいにローが呟く。視線をローに戻すと、彼は困ったように笑う。酔っ払った時に、たまにだがいうんだ。何を、と問うまでもなくローは続ける。俺は大きな海原を、沢山の仲間と一緒に走り回ったんだと。海が生活する場所で、母親で、人生だったと。
なぜ過去形なんだかは知らないけどな、と付け加えてローは笑う。ぶはは、そりゃそうだ、とサッチも釣られて笑った。ついで時計を見やる。時計の針は知らないうちに一周していたようだ。
「さて、もう寝るかなぁ」
「いきなり押しかけてしまってすまないな」
改めて神妙にしているローに、エースがいつも酔っ払ってくるのは慣れてるからかまわんさと笑ってやってから、床に毛布を二枚ほど置いてやる。好きに使えという意味を正確に読み取ってローは一枚をエースに投げつけ、一枚を床にしいて、一枚をかぶった。
「おやすみ」
「・・・おやすみ」
その夜は、ラッセンの絵にでてきそうなほど沢山の魚が躍る海の夢をみた。フィジーなどで見れるような大きなマンタ、色鮮やかなウミウシ、ミノカサゴ、魚が躍る。頭上を大きな影がゆったりと通過するのを感じて視線を上げる。
大きな鯨がよこぎっていった。鯨のような、しかし鯨にしてはでかすぎるそれを、サッチはじっと見つめていた。
あんなものは見たことがない。どこかでみた巨大な客船だろうか。近づこうとしたとき、何かが、何かが後ろ髪をひくことを感じた。
そうだ、何かを探さないといけないのに。
サッチは夢の中で、深く海へともぐっていった。
[2回]
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