シズクの働く店には近頃不思議な噂がたっていた。曰く、“農民が
米を侍に振舞っている”と。さして面白い話ではないが、つまらなく
もない。笑顔でそうですかぁと相槌をうつシズクには、全く興味の無
い話ではあった。
今日もシズクは空いた時間を利用してゴロベエのところにいこうと
していた。剣技だけではなく、シタールの弾き方も教えて貰おうとい
う心積もりである。
いつかゴロベエに聞かれた事があった。その左手の包帯、本当に怪
我なのかと。曖昧に笑って誤魔化したはいいが、人のいい彼に嘘をつ
いているようでいい気分ではなかった。
何度もゴロベエのところに通ううちに、三味線や篳篥、シタールの
使い方を教えてもらい、なんとか三味線だけは聴ける位にまで上達し
たのだ。一度借りて帰って、店で弾いてみたら常連客には笑われた。
シズクお前さん、いつからあの芸事の侍の真似事をするようになった
んだいと言われてあははと適当に受け流してから一度も店ではやって
いない。しかし三味線は借りっぱなしのままだった。
驚く!
買い物をしてきたら店の裏からカコン、と薪を割る音が聞こえる。
キヘエは腰が痛いといってよくシズクに割って貰っていたのだが今日
は自分でやっているのだろうか。年寄りなのに無理は良くないと思っ
て店のカウンタへ野菜を放り置きながら裏口へと回る。
そこには見慣れぬ姿の男が一人、薪を割っていた。手にしているの
はてるてる坊主がついた工兵が持つ幅広の軍刀。着ているのはかつて
大戦の時代の北軍の工兵のそれであった。
「お侍様、すみません。薪割りなんてさせてしまって。いつもはそれ、
私の仕事なんですけど」
「いやいや、私は一文無しなんで、これで飯を食わせていただこうと
いう腹積もりでして」
「……へ? 」
薪割りをするから飯を食わせてくれ、というのは聞いた事がない。
もっとも、ゴロベエの賭けの報酬も似たようなものだったが。とりあ
えず聞き返してみると、お恥ずかしい話ですが私は侍崩れでしてね、
今日の口を糊するのも困難という状況でしてと語りだした。
「そのご様子からみると、先の大戦の折は北軍の工兵であられたので
すか」
「おや、軍服をご存知でいらっしゃる」
「知り合いに元軍人が多うございまして」
「なるほど…」
恵比須顔の男はそのまま薪割りを続ける。端から見ているとその作
業は実は剣術の素振りとよく似ている。己の腕を鈍らせる事無く、し
かもそれで飯が食えるとあっては一石二鳥と言うものだ。なかなかこ
の侍は敏いのであろうか。
今度から自分も太刀を借りてきて薪割りをしてみようかな、と思い
つつ男の作業の様子を見続ける。あぁ、そういえば名前を聞いていな
かったなぁ。
「そういえばお侍さま、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「あぁ、そういえば名乗っていませんでしたね。私は林田ヘイハチと
申します」
「…ヘイハチ様」
「貴女のお名前は」
「シズク、と申しますが」
シズクさんですかぁ、ここで働いていらっしゃるのですねぇ。そう
言う男は作業が終わったのか小さな破片を削りだしている。何を作る
のだろうと観察をしていたら座ったらどうだ、と勧められた。礼を言
って腰を下ろし、平八の作業を見続ける。器用に動く指先はやがてい
くつもの爪楊枝を作り出していた。
「器用でいらっしゃるんですね」
「いやいや、これくらいしか能がないもので、お粗末さまです」
見ている間に楊枝の山ができはじめる。工兵故の器用さなのだろう
かとぼんやり考えた。店の裏口が開いてキヘエが顔を出した。シズク
に向ってここにいたのか、そろそろ客が入りだしたから頼むよと言い、
平八にはもうそろそろいいですよ平八殿、お食べになってくだせぇと
言って顔を引っ込ませていった。
「ゴロベエ」
夕日が差す第四階層の中で一座の道具を片付けだしていた男に声を
かけたのは一座の仲間だ。如何したと問うと、シズクの事を問うよう
な素振りで言う。あの娘は、一体何処から来たんだろうな。
そんなことを聞かれても己にもわからない。だが分かる事は只一つ、
元は侍で今はこの街のどこかで働いている。初めて彼女を見たのは深
夜遅くの人気の無い裏路地だ。刀をふる音に惹かれて道を外れて行っ
た先にいたのは、髪を三つ編みに束ねた痩身の女。
手に握っていたのは随分と業物のようだが、何で汚れているのか、
刃特有の煌きは無かった。無心で刀を持ち、形を五つほどこなしてい
た。ほぅ、と軽く感嘆してそのまま見つめていると、少ししてから休
憩の為かその場に胡坐を掻いて座り込む。
(不思議な奴だ。戦は既にないというのに、未だに己を鍛えるか)
そう思って限りなく気配を殺してそのまま観察し続ける。すると彼
女は小さく呟いた。しかしその声は静まり返った路地に反射してこち
らにも聞こえてくる。
「お前を使わなくなって四年、研ぎにも出さずに悪いなぁ」
薄汚れた布でその刀身を拭いながらブツブツと独り言を続ける。父
上のはちゃんと骸と共に葬ってやれたけれど、お前はまだ無理だな。
私が生き残ってしまっているから、もう少し我慢してくれよな。
その姿は、戦時中の仲間の動作とよく似ていた。戦っている時は刀
を打ち直すことなどできはしない。自分で研ぎ石を使い水をかけなが
ら研ぐ。戦場でなどそれすらもできず、斬れなくなった刃を叩きつけ
たものだ。
戦場の匂いのする女を置いて、ゴロベエはそっとその場を離れた。
面白いものを見つけた子供のような笑みを浮かべながら。
「…ゴロベエ、如何したんだ」
不意に問われて吾に返る。しまったトリップしていたか、と頬を掻
きながらすまん考え事をしていた。シズクのことは某もよくわからん
でな、と誤魔化した。
はたと気がついた。初めて見かけたあの夜、彼女は刀を左手で持っ
ていなかったか。そうするとこの間のチャンバラは利き手ではない方
で戦っていた事になる。それであの力量とは。
「……つくづく、おそれいる」
「何か言ったか」
「いや、なんでもない」
ゴロベエは曖昧に笑って芸事の銅鑼を鳴らす。また人垣ができるの
を見やって己は己に嘘をつきながら生き続けるのだ、と皮肉に笑んだ。
「いやぁ、やっぱりここの飯は上手い」
「以前にもここでお召し上がりになられた事がおありで? 」
「えぇ、恥ずかしながらその時も薪割りをさせていただきまして」
盆の窪に手をやりながら答える恵比須顔を見て、シズクもつられて
笑う。この男はどうやら無意識に周囲を落ち着かせることができるら
しい。戦地においてもそれは随分と役立ったであろう事は明白だった。
談笑していたらキヘエから盆が飛んできた。早くしてくれぇ、運ぶ
のはお前の役だろぅ。言葉も一緒にくっついてきたのを見て両方とも
受け止めた。おおっと、キヘエさんに怒られちまったぃ。それじゃお
侍、また後ほど。そういってシズクはヘイハチのもとを離れた。
暫くしてからヘイハチのほうを見ると、いつの間にかその席は空席
となっていた。帰ってしまったのに気付かないなんて、自分も随分鈍
ったものだ。それはそれでまた楽な道への一歩となるのだから、彼女
は自己嫌悪になどならなかった。むしろ安堵していたくらいである。
ヘイハチはニコニコと笑いながら行きかう人の間をすり抜ける。疑
問を軽く口にしながら。
「あの人、死角からの投擲物に反射していたなぁ…反射神経が鋭い娘
さんってわけでもないだろうにねぇ…」
実際驚いていたのだ。口元に笑みを灯した彼女は、さして苦も無く
それなりなスピードで飛んできた盆を受け取ったのだ。後から飛んで
きた台拭きには反応できずにべしゃっと頭にストライクしていたが。
それにしてもさっき飯屋の裏口でも気配を察する事ができなかった
のはいったいどういうことであろう。彼女はやはり只者ではないだろ
うな、と結論付けてヘイハチは顔を上げた。サムライに出会って少し
気分が当てられたのかもしれない、身体が何だかみなぎる気がした。
岸壁と岸壁をつなぐ回廊を歩いていた。ここはそれほど人の数も無
く、正直人ごみがあまり好きではないヘイハチには、食後の寛ぎを得
るのに丁度いいところだった。橋のようになっているところの欄干に
腰掛け、さっき作った楊枝の一本で歯に挟まった菜っ葉を取っていた。
それにしてもあの飯屋の定食は本当に美味い。米が何より美味いの
だ。薪割りをするだけであんなにも美味しい飯を食べれるのだから、
これからも通ってみようかと考えていた、まさにその時。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 」
ふと上を見上げた若い女性が叫び声をあげた。驚いて目をやると、
彼女は橋の外を見ている。まだうら若いと言って差し支えない女性、
むしろ女の子が上階のまだ連結工事の終わっていないパイプから飛
び降りた後である。赤と青の衣装がやけに目に付いた。
その女の子はなるべくこの橋に近いところを目指して飛び降りた
のだろう。サムライでもない凡人が飛び降りても衝撃に身体は耐え
られないし、和らげる術すら知らないだろう。一瞬どうするか焦っ
た。
と、近くを歩いていた長髪で壮年のサムライと思しき男が女の子
を見るなり彼女を追って飛び降りた!
あわてて反対側の欄干に飛び乗って下を見やる。男は女の子を抱
えるようにして堕ちてゆく。さて彼はどうやって助かるつもりなの
だろうかと、ポケットから小さな望遠鏡を取り出して見ると。
男は止まっていた昇降機のワイヤを斬ったようで、落ちるそれの
上に掴まり、壁に刀を突き刺した。加速していた落下速度と抵抗で
刀と壁の間から火花が散る。やがて十三階層の地面に近づくと、彼
は女の子を抱えて飛び降りた。彼女も無事なようである。
「おーぉ、大胆な方がいらっしゃるものだ」
恵比須顔で驚いてしばらくそのまま突っ立っていたが、己が欄干
の上に立っていることに気がついて急いで降りた。自分までも落ち
ると思われてはたまらない。
頬をぽりぽりと掻きながらヘイハチはテクテクと道を急いでいっ
た。
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