またしてもある日のことだ。キヘエが仕込みを、シズクが簡単
な掃き掃除をしていた時に暖簾をくぐってきた男がいる。浅黒い
肌、頬に傷。なんのことはない、ゴロベエその人だ。いつもの一
座の仲間ではなく、農民を一人連れていた。
「ゴロベエ殿じゃありませんか、どうかしましたか」
「どうもこうも、やっと御主の店を見つけたというに」
「あれ、言ってませんでしたっけ」
意外と抜けているシズクにやれやれと首を振る。後ろの男は不
安げに室内を見渡していた。侍である彼と農民なんて変な組み合
わせだなぁ、ゴロベエは仲間をどうしてしまったのだろうか。
飯を食うなら仲間以外となんて見たことない。
「…立ち話もなんですし、お座りになってください」
「忝い」
キヘエに向って、自分の知り合いだから何か出してくれますか
と頼み、自分は二つ湯のみと急須を運んだ。この狭苦しい店にゴ
ロベエの巨躯は少し浮いて見えた。
誘う!
とぽとぽと八十度くらいの茶を急須から注ぎ、二人に差し出す。
農民の方はそんなことはされたことがないのだろうか、おっかな
びっくり湯飲みに手を出し、ありがどごぜぇますとぼそぼそ呟い
た。
「で、どうしたんです。農民の方なんぞお連れになって」
「あぁ、彼はリキチという。神無村の者だ」
「初めますで、おらリキチと申しますだ」
それだけを聞いて、なにやら蟲の報せのようなものが脳裏を掠
める。この街には農民などめったに来ない。滅多にどころではな
い、普段ならいるはずの無い種類の人間達である。
まさか、ゴロベエは。視線を彼に送ると、その人のいい顔に笑
みを灯して彼は言う。
「実はな、御主を勧誘に来たのだ…近頃農民が米をふるまってい
るという噂を知っているか」
「……米を振舞う代わりに、野伏せりを退治してくれと頼むとい
う、アレですか」
「知っておるなら話が早い――御主、一緒にこないか」
リキチはのけぞって驚く。まさか目の前の店員が侍だとは道端
の石ころほども思っていなかったのだろう。丁度カウンタからお
通しとお新香を持ってきたキヘエは軽く眉を上げただけで調理場
へ戻っていく。
彼は知っているのだ、シズクが侍であることを。それを承知で
彼女をここに置いているのだ、きっと彼も大戦を戦場ではないど
こかでくぐっていたに違いない。故に彼女の心内を悟っている。
ゴロベエにはどこか確信があった。
真っ直ぐに見つめられてシズクは軽く目を閉じる。あぁ、この
人は知っているのだった。己が侍であること、まだ侍を捨てきれ
ない事を。しかし、彼女にはまだやることがあった。
「私がこの街に住み着いた理由を言いましたっけ」
「いや、聞いておらん」
「――人を探しているのです。この人が沢山行きかう街ならばも
しかしたら会えるかもしれないと……生きていればの話ですが」
「…故に、ここを動けぬと」
「申し訳ない」
明らかにリキチはがっかりしたようだ。しかしゴロベエはふむ、
と言って顎を撫でさするのみ。それを見やりながらシズクはもう
一つ湯のみを持ってきて席につく。自分のそれに茶を注ぎながら
彼に問う。
自分以外でも力になれる侍はおりましょうに。いやそれがな、
なかなかコレという者にあえなくてな。歩きつかれたのと御主が
どこぞこのあたりで働いているというのを小耳に挟んだゆえ来た
のだ。
「ならばここで構わぬなら侍探し、手伝いましょう」
「そうしてくれるとありがたい。が、」
「が? 」
「一応御主のことも推薦しておく。明日にでも大将を連れて来る
が構わぬか」
「まぁいいですけど、きっと私はここを動きませんよ」
「分かっている」
呵々と笑いながらゴロベエは席を立つ。いつまでもここでゆっ
くりしているわけにもいかんでな。そう言って彼らは行ってしま
った。
(何か、悪いことしちまったかねぇ)
後ろめたさは拭いきれない。己を分かってくれる友にあんな断
り方をしてしまったのだ、嫌われても仕方がないというもの。そ
んなことをぐるぐると考えていた彼女にキヘエの声が飛んできた。
「いかねぇのか」
「捜し人をみつけなければ」
「その左手のモノと同じ模様の仲間か」
「……ずるいですよキヘエさん。貴方も元は侍でしょう」
「賄い方ばかり担当していたがな」
彼の右の二の腕には酷い切り傷痕があった。それを四年も共に
すごしてきた彼女が見逃すはずが無い。いつぞやの戦の折につい
たものさと笑う彼からは、もはや戦場の匂いなど感じられること
もなく。彼が戦場に戻るには、歳を取りすぎたのだ。
夜。
いつになく深い眠りに堕ちていた彼女はふいに意識を浮上させ
る。湯船に一滴たらしただけのようなかすかな殺気に目を開く。
はたして目の前には闇夜においてなお煌く刃があった。
心内で舌打ちして、眉を歪めながら太刀の持ち主に問う。用件
は何だ、私はこの街で仕返しあだ討ちなどされる思い出は一つも
無いはずだが。刀の持ち主は小さく笑んだ。
「…ようやく見つけた。一緒に来てもらおうか」
「…はぁ? 」
「ウキョウ様がお前を是非護衛にと仰っておられる」
「あんな馬鹿息子を守れっつぅのかい…お断りだよ」
この状況下でまだ言うのか。刃が煌き、首筋にプクリと小さな
血玉ができる。やがてそれは一筋に流れ出す。やれやれ、と溜息
を漏らしながら起き上がり、せめて着替えさせろと要求する。
要求が受け入れられた事に驚きながら、ゆっくりと着替えなが
ら逃げ道を捜す。だが今ここはキヘエの店の二階。ここで騒動を
起こせば彼に被害がいくのは自明の理だ。そんな無鉄砲な事をす
るつもりはない。それに、窓の外に一つ、どうにも油断できぬ気配
があった。今この目の前の男を切り抜けても、窓の外に出た瞬間
斬って捨てられるだろう。ここは諦めるしかさなそうだ。
大人しく窓から身体を抜け出させると、窓の外にいた男が入れ
違いに部屋へと滑り込み、部屋の隅にたてかけてあったシズク
の細長い布包みをしっかりもって出てきた。ご丁寧な事だ、彼女
の事は隅々まで調べられていたらしい。彼女を脅す刀は相変わ
らずシズクの背後にあって、進めと突かれて歩き出す。
店からはなれて連れて行かれること暫し。丑の刻を回ったとこ
ろであたりは静まり返っている中、階段を上り二階層まで。そこ
の一番高い場所に浮き舟邸はあったが、いつの間にどうなった
のやら館は跡形も無く。
其の侭浮き舟邸を通過し、マロ様がおわすという一階層にある
差配屋敷へと促されるままに連れて行かれる。趣味の悪い、無駄
にどでかい屋敷の様子にシズクは思わず眉をしかめた。白粧の
匂いがしてきそうで吐きそうだ。
「何をしている」
背中を刀の柄でつつかれるまま、へいへいと軽い口調でその門
をくぐった。入った途端にむせ返るような香のきつい薫りにおも
わず顔を顰めたが、周囲の者たちは慣れているのか随分と平気
の平左な表情だ。慣れてしまった彼等を哀れと思ってもよいもの
だろうか、と一瞬悩んだ。
とたとたと奥から廊下を歩いてくる音がする。こちらもそちら
にむかっているので自然に相手が誰かなど察するのは容易だ。や
ってきたのは放蕩息子で大がつく馬鹿野朗の若様。
「やぁっと僕のところに来てくれたんだねぇ」
「己の意思ではないですけどね」
「今度こそ名前を言って貰うよぉ」
「人の話を聞けってんだ…へーへー、言うってばさそんなに刃を
突きつけないでくれっかな……シズクだ」
「シズク君かぁ、よいねぇ、良い名だ」
とりあえず香水風呂に入ってもらうよぉ、と言うなり手をパン
パンと叩く。奥から屈強そうな用心棒二人が現れ、シズクを担い
で去っていく。後に残されたのは唇の青い男と、それ以外の用心
棒だ。
何故自分がこんなことに駆り出されたのか正直謎だった。たか
だか馬鹿息子のお守りなど、テッサイ一人で十分だろうと思って
いたのだ。ウキョウの元につけば一言、テッサイの指示に従え。
後でテッサイに聞けば彼の御仁も相当辟易している様子で、溜
息をもらしながらヒョーゴに事の詳細を伝える。曰く、今度ウキ
ョウが欲しがっているのは侍の女。気配を殺したテッサイの手刀
をいとも簡単に避け、更に足払いというお礼に熨斗をつけて返し
てくる程の手練れであるという。
それを御側女衆の護衛にしたいとのこと。テッサイの顔を見れ
ば彼がどんなに苦労をしているかがわかるというものだ。思わず
肩に手をかけ、その溜まりに溜った労苦を労ってやりたいほどだ。
だがそれ以前に、サムライの女というのにとても興味を惹かれた。
ヒョーゴは手元の布の包みをみる。長さからして太刀であろう
と予測をつけて持ってきたがそれの中身を検閲するべく布を取り
払う。予測どおり、一振りの太刀がそこにはあった。ただ予測外
であったのは、それの鞘が元の色すら判別つかぬほどに汚れてい
たことと、同じく何色であったのかわからぬほどに草臥れ、色あ
せた組紐で雁字搦めにされていた事。
さっき無理矢理連れて行かれた女を思い出す。寝入っているのを
見計らって侵入したというのに、一瞬で眠りから覚めたようだった。
先に忍び込んだ男が、疲れたように溜息をつきながらあれは焦った
と白状してほかの用心棒と笑っている。
女にしては随分と長身痩躯で、そして自分が不利な状況にも関わ
らずにウキョウに対して暴言を吐くその姿勢。そこいらのサムライ
崩れとはまた一風変わったその威圧感。囚われても逃げる気まん
まんのその瞳は、不思議なほどに煌いて見えた。
(大戦を潜り抜けて尚、その瞳に誇りを宿すサムライか)
思わずついた溜息に羨望の意が交じったのは仕方があるまい。
己は戦が終わりすぐにキュウゾウと共にアヤマロの支配下に入っ
たのだ。サムライとしての矜持などとうに捨てていた。
あーあ、臭いなぁ、何この臭い風呂の水。香水つってたけどこ
んなに匂うと返って頭痛がしてくる。しかもこの水の色、何を思
っているのか血よりも赤い色であるのには正直萎える。血を思い
出して軽く身震いする。あの戦場の匂いが帰ってくる気がする。
全員が生き残るぞと誓い片手に彫った六花は、それぞれの戦地
を転戦するうちに一人またひとりと散っていった。最後に別れた
カンベエとシチロージも今は生きているか知れぬし、父親はカン
ベエの上司であったから当然その手には刺青は無かった。
父親は三の丸の艦長を務めている男で、空中戦が始まるや否や
部下に斬艦刀を操縦させて飛び出していく猪突猛進な気がある男
だった。
彼の、最後は―――
「いつまで入っていらっしゃるんです」
風呂の外から声がかかり、急いで身体をごしごし洗い、香水の
においをなるべく取るように心がけてから上がる。そこで待って
いたのは彼女を着飾るべく待ち受けていた、侍女達である。シズ
クはあれよあれよと言う間に襦袢を剥がれて新しいそれを着せら
れ、上に一枚浴衣を着せられて湯殿から連れ出される。
しまったな、と思ったがもう遅い。さっきまで着ていた衣装に
は昔からいつも持ち歩いていた小柄がある。それは衣装と共に消
えうせていた。無くしてしまった…と軽く落ち込んだが気持ちを
きりかえる。形あるものはいつか無くなるもの。形が無い命でさ
えなくなるのだ、一振りの小柄なんて無くなって当然だ。
別の小部屋につれてこられた。そこは所狭しと衣装が置いてあ
り、うわ金の無駄遣いぃ、とシズクを呆れさせるのに十分な場所
であった。
「あぁ、髪を解くとなお良いねぇ」
またしても粘着質な若い男の声。馬鹿息子再来か、と眇めて見
やるとウキョウはニコニコと笑っているままだ。首筋に蕁麻疹か
なにか出てきそうだ、気持ち悪いのを体現しそうで必死に耐える。
その間にも、侍女達はあれやこれやと衣装と取り出してきては
彼女の身体に押し当てる。やけにすべすべしたこの質感は絹であ
ろう。服なんぞにまで金をかけやがって、成金はこれだからと軽
く軽蔑した目でウキョウを見やる。
そんな視線には露ほども気がつかずにウキョウはシズクを見て
言った。君、僕のものにならない? 思わずうんざりした表情に
なって肩を竦めて言い放つ。
「嫌だ」
「女の護衛が欲しいところだったんだけどなぁ…じゃぁ、御側女
衆に」
「死んでもごめんこうむる」
「つれないなぁ…」
なんでだろうねぇ、君って不思議な人だねぇ、僕の側にいれば
きっと一番綺麗になるだろうにねぇ。いいかげん我慢できなかっ
たので侍女達の手を振り払い、自ら着れそうな服を探す。なるべ
くシックな色を探し、ウキョウがなにやら言うにも耳を貸さずに
着込んだ。色彩感覚ならば服を着こなすくらいなら持ち合わせて
いる。
「…この家に用はない。さっさと返していただけるとありがたい
んだが」
「…君いいの、あの店の主人、たしかキヘエって言ったよね」
「……」
人質をとるつもりか。睨みつけるとウキョウはうわぁ怖い怖い、
でも彼に何かあったら困るよねぇ。だったらここに居て貰うよ。
そういい捨てて去って行ってしまった。
本気で殴りつけようかと思ったが、キヘエと女房の事を考える
とそんな軽率な事はできない。これでも義理堅い方だと思ってい
るのだ。急に何も言わなくなったシズクを不審に思ったのか、一
人の用心棒が覗き込んだ。途端、その瞳から発せられる強烈な視
線に射抜かれる。
「は、はやく連れて行け」
侍女達はシズクの手をとって連れて行ってしまった。
さて次の日。約束どおりゴロベエは仲間を数人連れてきた。そ
の中にはなぜかこないだここで薪割りをしていたヘイハチの姿も
ある。農民の姿も、そして長髪が特徴的なサムライもいた。
そのサムライ、名を島田カンベエと言った。
「キヘエ殿」
「これはヘイハチ様、ゴロベエ様ようお越しくださいました」
「シズク殿は、いらっしゃいますかな」
「それが……」
仕込をしていたキヘエの顔は、いつもより青ざめて見えた。女
房も心なしか元気が無い。シズクの身に何かあったことは明白だ
った。キヘエに勧められて座った所へ、女房が茶の入った湯飲み
を差し出す。
「……シズクの身に、何があった」
声を発したのはカンベエだ。ゴロベエが驚いて振り向く。ご存
知なのかと視線で問うと、彼はおそらくは知り合いだろうと返答
した。キヘエがその問いに答えるように、静かに話し出した。
「昨日まではいつも通りに店じまいをして、私らもあの子も就寝
したんです。時間は子の刻を半刻ほどすぎた時でした」
それで、キヘエより朝早くに起きて朝食の支度をしているはず
のシズクが起きて来ないのに不審に思い、二階の彼女の部屋の襖
を開けると窓が開け放されていて、布団は蛻の殻であった。
不思議なのは、彼女の布包みが一緒に消えていた事。
この生活が嫌になったなんて彼女は一言も漏らさなかったし、
ましてや行き倒れていたシズクを助けたのはキヘエだ。彼女が彼
に無言で出て行くなんていうことはありえない。
キヘエの発言を黙して聞いていたカンベエは徐に右の手袋を脱
いだ。六花弁の花の刺青が出てくる。
「キヘエ殿、といったか。彼女を拾った時、手の甲にこのような
モノと同じ紋様は無かっただろうか」
「はっきりとは見ていませんが…。女房なら知っているやも知れ
ません」
呼ばれてきた女房は酷く怯えた様子だったが、キヘエが大丈夫
だ、と言い切ると幾分かいつもの気の強さを取り戻したようだ。
だが彼女も、右手しか見ていないという。左手には包帯がぐるぐ
る巻きにされていて、その包帯だけが妙に新しかったのだと言っ
た。
「あの子は、最初こそ警戒してきましたけれど今はても気のいい
子だったんです。逃げ出すような子ではない、分かってください」
キヘエの言葉にそうだろう、と頷くゴロベエ。今まで黙して聞
いていた農民の女の子が、何かに思い当たったようにハッとして
近くに座っていたカンベエを見あげる。
その方、まさか―――
「おそらくそなたの思ったところにいるだろうな」
カンベエは薄らと目を開いて静かに言った。ヘイハチが眉を潜
めるもしかして、あそこですか。それにゴロベエは思わずご冗談
を、と呟く。三十路手前の自分が年下である馬鹿息子に攫われる
など空中に舞う塵ほども思っていなかったろう。
「如何なさいます」
「儂の知っているシズクならば、自ら囲いを破って出てこよう」
「シズク殿の器量を測ると仰せか」
「もし違うのであれば無理だろうし、あ奴であっても出てこれぬ
のならあ奴もそれまでの者だということだ」
なんという信じ方。まるでシズクがあの屋敷から出てくるのは
必然であるような、そんな言い方である。なぜと視線で問うた。
男はただ静かに座っていたが、やがて立ち上がる。そしてキヘエ
を見据えて言った。
「もしシズクが帰って来たならば、六階層で待つと言って置いて
くれ」
「承知」
「そなたにも害が及ぶやも知れぬ」
「なに、武士は皆相身互いっていうだろう」
微かに引き攣れのある顔で、キヘエはにたりと笑んだ。それを
サムライの笑みだと悟ったのは店をでて随分行ってからだった。
部屋の広さは六畳程だろうか。新しい畳の薫りがシズクを和ま
せてくれる唯一の要素だった。それ以外は皆ごてごてと余計な装
飾ばかりが主張していて、とても目に痛いし、疲れるものである。
正直言って、一刻も早くこの趣味の悪い屋敷から抜け出したか
った。何が悲しくてこんなところにい続けねばならぬ、刀の場所
は分からないし小柄もどこかへいってしまった、ならば身一つで
抜け出す他無い。
だが、時期を待たなければ何事も成せぬことは、いくら無鉄砲
なシズクでも知っていた。適当に畳みに寝転がって、できる運動
でもしておくかぁとばかりに腹筋を始める。実はこれも彼女の日
課であった。おかげで三十路手前だというのに腹は軽く六つに割
れている。
と、そこに廊下から声がかかる。入って来んな、と言っても入
ってくるのが我儘息子なのだからしょうがない。後ろに赤いコー
トを翻したサムライがいた。
「ねぇ、いい加減考えてくれたかな」
「暇だ」
「僕の話を聞きなよ」
「いっつも私の話は聞こうともしないくせに、自分の話は聞けと
強要すんのか。今時はやらねぇな」
ピクッと片眉が動いたのは気のせいではないだろう。しかもそ
れは自分を更に窮地に追い込むことになるのに、彼女は面白がっ
て見ていた。マゾッ気があるんだか無いんだか。
刀を返してくれたら考えない事も無い。そう言うと、ウキョウ
は素直に喜んでじゃあ返すから、ワーリャ達の護衛になってよね
といい置いて行ってしまった。バタバタと走っていったので後か
ら続く護衛の男は些か遅れ気味に出て行こうとする。
徐に振り向いて、彼は言った。
「キヘエの飯屋の女だな」
驚いた。このサムライ、どこかで見たような気がしていたが、
まさか店に飯を食べに来ていた客だったとは。毎度ご利用いただ
きましてありがとうございます。どこのスーパーのアナウンスか
と思うような言葉と共に頭を下げたが、返ってきたのはただの視
線。
無口なのか寡黙なのか、まぁどっちも同じ意味だからいいかと
会話を諦めつつ、それでもちょっと興味を抱いて恐る恐る聞いて
みる。
私のこと、ご存知なんですね。男は無言で頭を上下させた。何
度かいらしてたんですか。肯定。じゃあ、いつから私が住み込み
始めたのかもご存知で。返答は無言の肯定。
「……では、キヘエさんの事も」
「……終戦の十年ほど前までは南軍の前線にいた…らしい」
「……」
ならば行き倒れた自分の事も知っているのだろう。自然と声の
トーンが下がり、相手を観察する目に切り替えていく。何を聞き
出そうとしてくるのか、どう行動するとようのか、頭をフル稼働
させる。だが男は本当に唐突に、己の懐に手を突っ込んであるも
のを取り出して見せた。
「御主、功刀の娘だろう」
「?! 」
「この小柄の紋様、功刀のものだ」
驚く彼女に小柄を渡す。自分の用事はもとからそれだけだった。
目が点になる女を放って部屋を出ようとして、裾をがっちりと捉
えられたことを知る。何だ、と問う様にそちらを見れば凄まじい
ほどに見上げてくる瞳とぶつかった。
「うちの父を知っているのか」
「山ほどこっちの艦を斬った」
「アンタ、南軍だったんだな」
「…そうだ」
上将がそこまで名を馳せていたならこっちだって鼻が高いって
もんだ。感謝しとくよ、赤いサムライ。シズクは身体を翻し、狭
い窓際に座ってしまった。今の一瞬の必死そうな顔は何処へやら、
いつも通りのかったるそうな顔に戻っている。
「察しの通り、私は功刀嘉親の娘のシズクだ…名乗ったからには
アンタも名乗って貰おうか」
「…キュウゾウ」
へぇ、よろしくな。そう言った女の目は微かに光っていた。
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