はるか遠く、とは言えぬ昔。その大地には大戦と呼ばれる時代が存
在した。戦が戦を呼び、戦いにあけくれた日々。前線も裏方も地上の
民も、戦に関わった人間全てが命のやり取りを日常茶飯事として生き
ていたのである。
その戦場は空の上。次々と打ち落とされていく機械の侍、戦艦、鋼
筒(やかん)、兎跳兎(とびと)。地上はそれらの炎に焼かれ、焦土
と化していた。大戦の時代においてサムライの場所は空、農民などを
始めとしたサムライ以外の者達は地上と居場所が決まっていたため、
逃げる場所もなく爆発や炎に巻き込まれていくものが少なくなかった。
ある空では命のやり取りの瞬間に恍惚とした表情を浮かべる者、ま
たある戦艦内では必死に仲間の修理や補強、裏工作を張り巡らせる者、
前線に立ち己の身体の何倍もの大きさを誇る雷電型や紅蜘蛛型を木っ
端微塵に斬り裂くもの、プカプカと煙をあげるパイプを口にいっそ優
雅ともとれるほど見事な切り口で戦艦を落とす者など、数多のものが
その時代に存在し、主が為に働いた。
そしてここにもまた、戦に負けつつも己の道を切り開こうとする者
達がいる。本丸級の戦艦よりは幾分も小さい戦艦。守るべき主の乗る
戦艦はとうに爆破され、陣形もガタガタに崩れ落ちてなお戦おうとす
る仲間を逃すべく斬艦刀に乗り込もうとする人影が二つ、それをはた
で見送る人影一つ。
その斬艦刀の持ち主はとっくに紅蜘蛛に切られて地に落ちていた。
「…行くのか」
「そうするしかあるまい」
「アンタは変わらないな、カンベエ様」
「カンベエ様は負け戦がお上手ですから」
違いない、呼びかけた者は軽く笑んで、風に煽られる髪を抑えた。
その左手には刺青が施されている。同じものが憮然とした壮年の男の
手にもあった。彼らは同じ陣営、そして負け戦をしている最中である。
三人共にサムライであった。
女は斬艦刀に乗り込む二人を笑顔で見送る。シチロージがにやりと
笑って女に言う。アンタもこの艦を頼むぜ。それに対して彼女はケラ
ケラ笑って答える。その言葉、そっくり返してやるよお二人さん。副
官の方は三つ髷を揺らして笑い出した。違いねぇや。
普通の人間ならばすでに吹っ飛んでいるであろう風の中で、それを
物ともせずに突っ立っていた女は、三つ髷の顔を見やりながらひそり
とほくそ笑む。女の意図はこの目の前の二人には通じていないだろう。
この期に及んだいたずらは見事成功したのだから。それが何のことか
は、やがてカンベエが見つけることになる。
願わくば生きて再会しようじゃないか。
艦を離れた斬艦刀を見やり、彼女は身を翻して天守閣型戦艦の中へ
と進む。虎口から入り、昇降機を使って一番上を目指す。一番上のテ
ラスには彼女の父である男が刀を持って佇んでいた。片目が大きな傷
とともに潰れたその表情は厳しいものしか浮かんでいない。
「カンベエ達は」
「行きましたよ、上将」
「そうか」
「また負け戦だ、と笑ってました」
にやにや笑う彼女を眇め、男はまた真っ直ぐを見つめる。先には南
の軍が仲間を次々と屠って行くところだ。雷電や鋼筒が、断末魔と共
に地へと堕ちてゆく。ふと、黙したはずの父が口を開いた。
「…お前にはすまないと思っている」
「ここまで引っ張ってきておきながら何を今更」
「お前が生まれて十七年、ともに過ごした時間はそれより短い」
「……」
「お前だけは、生き残れよ」
こちらを見たその右目は常に厳しい上官のそれではなく、父として娘
を案ずる者のそれであった。知らず居住まいを正し彼女は腰のものをス
ラリと引き抜く。彼女に倣った隣の父の獲物は大きな刀。刀とすら呼べ
ぬほどにそれは太く、大きなものであった。
「耄碌なされたか上将」
「何を抜かすこの阿呆娘」
「あんたはこんなとこで死ぬわけにゃいかんだろう」
「お前な、父親にむかってあんたはないだろうあんたは」
「やかましいわこの爺」
能天気にもぎゃんぎゃんと喚きあう二人に、天守閣を動かす首脳室に
詰めていた数人の侍は苦笑する。この親子はいつまでたってもこの調子
で、ここが戦場なのが嘘みたいだ。しかも、負け戦で逃げの一手をうっ
ているこの状況なのに。
そこへどこから忍び込んだものか、突如二体の鋼筒が二人へ切りかか
る。ぎゃあぎゃあと怒鳴りあっていた二人は、一瞬のうちに切り捨てた
二体には見向きもせずに互いを睨み合いながら、何事もなかったかのよ
うにしてまた喚きだす。
「ほんっとによ、あんたはもう少し将としての貫禄をだな」
「やかましいわこのど阿呆!貴様ももう少し儂の娘ならば戦酔いするで
ないわ」
「はぁ、戦酔いしなければ生き残れぬと仰ったのはどの口だ」
「この口だとも」
「んじゃあ少しは自分の言った事に責任持ちやがれこの年寄り!」
まったくもって、この親子は。溜息すら笑いに変わる。
まもなくこの艦にも追っ手が掛かる。カンベエ達は彼女たちを逃がす
為に飛び立った。周囲を守るように飛んでいる雷電の数が少なくなって
きた今では、頼れるのは己の腕のみ。気合砲の飛び交う中、彼らはそれ
ぞれの相棒を構える。一瞬も間をおかずに、近くを飛んでいた二つの本
丸も一つ、また一つと堕ちて行く…。
そして先ほど別れた二人の乗る斬艦刀も、彼等が守護する天守閣もや
がて爆発の炎の渦へと消えていったのである。
そして、大戦が終了し
サムライの時代は幕を下ろした
変わりに頭角を現したのが士農工商の商、商人達である。戦火の彼方
でただ戦の行方、ひいては時代の行方を傍観していた彼らは、戦争の時
代の名残である本丸級戦艦を改造し、“都”と名づけ大棚として彼らは
触手をどんどん伸ばし、ついに時代を操るまでに上り詰めた。戦争が終
わって没落していった侍とは雲泥の差である。彼らに買えぬものなど、
いまや何も無かった。
笑う!
「はぁ…」
虹雅渓の商店層。商人が街の差配をしているとあって、彼らの店は随
分と豪華なそれである。その一つの店の店主であるキヘエは溜息をつい
た。この街を生活の中心におくる人々の中に埋もれるようにして生きて
いる彼ではあるが、今すこぶる平和で楽しい日々を送っている。
大戦の時代には自分の店も侍ばかりだったな、とそう広くも無い今の
店内を見渡して思う。今はここで職を探す流れ者、この街の人間、侍で
あった風を装う人間ばかり。平和になったのはいいが正直かつてより売
り上げは減った。
まぁったく、差配ってのがついて商売は安定したものの、経営に関す
るスリルってのが無くなっちまった。いつもそうぼやいては女房に怒鳴
られている。キヘエ夫婦のかかあ天下の喧嘩は一種の名物であった。
ここにもう一人、この居酒屋の名物がいる。名をシズクといい、見た
目はうら若い女性に見えるが実は意外と年寄りという切符のいい看板娘
だ。娘、とはもう言いにくい歳ではあるが、本人が娘だと言い張るので
キヘエも諦めて彼女を看板“娘”にしている。
彼女の働いているキヘエの居酒屋は、様々な人が出入りしていく。そ
の中には、飲んだり食べたりした分を払わずに刀など物騒なものに物を
言わせて逃げようとするものもいるのである。
そこまではまだいいのだ、このごたごたした街の日常茶飯事で済むの
に、シズクは刀をみてもさして驚いた風を見せずに開口一番怒鳴りつけ
るのだ。キヘエの悩みの種である。
「なんだいなんだい、お客さん、随分とひっでぇ鈍ら振り回してるじゃ
ねぇかい」
その者は怒鳴りつけてくる。うるせぇ、貴様に刀の何が分かる、と。
わかったらいちいちいちゃもんつけたりしないよ、アンタ馬鹿だろ。
客と店の者の言い争いを聞きつけたカムロ達に事態を収められて一件
落着してしまうのが日常茶飯事と化してしまった今、キヘエの店は騒動
のよく起こる店として、街の一部の者には有名になってしまっっていた。
おかげで随分と顔なじみにキヘエはからかわれる。いい広告塔ができた
もんだなぁキヘエ。
いいことなんだか、駄目なんだか、正直頭を抱えたい思いである。
商人の手によってこの街は動き、世界は動いていると言っても過言で
はない。この現代に侍は既にお荷物であった。故に彼らは職を失い、で
きることといえば野伏せりになり、大地にあった農民達へ刃をむける事。
だから今のような哀れとしか言いようの無い侍崩れが沢山街をうろつ
いている。しまいには発狂してしまうものもすくなくない。かつてと今
の差に耐えられなくなるのだ。武士というものは皆得てして不器用だ。
侍を必要としない今に溶け込めない。
今日もキヘエが頼まれた酒の肴を調理している間にシズクは常連客達
に絡まれる。
「シズクぅ、今日も喧しいなぁ」
「うっさいわおっさん、アンタも捕まりたくなきゃさっさと溜まりまく
ってるツケ払いな! 」
「おぉ、若年寄りは怖い怖い」
「あんたそれ老中補佐のことだえ」
そんな会話もすでに茶飯事だ。毎日毎日聞いてるとしまいにゃ飽きて
くる。だがキヘエはそんなシズクもこんな生活も結構気に入っていた。
彼女がこの店に住み込みで働き始めたのは四年前。およそ女とは思え
ぬようなボロボロの格好で店先に倒れていたのをキヘエが慌てて介抱し
たことから始まる。長い事地方を転々としていたらしく、嘗ては草色で
あったろう変わった形の服も何がついて汚れたものやら今ではその上着
のほとんどが黒紅色に染まってしまっていた。服を脱がせるだけでこび
りつき乾いたものがパリパリと粉になって畳みに落ちる。湯で顔を拭え
ば手ぬぐいは真っ赤になった。
女房に彼女を任せ、自分は医師を呼びに走ったものだ。今でもよく覚
えている。そのまま七日ほど昏々と眠り続け、ようやく目覚めたと思っ
たら射抜くような視線で警戒されたのだ。眠り続けていた為に身体の筋
肉がすっかり衰えてしまっていたことも警戒心を煽ったのだろう。持ち
物の一つにあった細長い布包みに手を伸ばしながら、かなりの低音で問
うてきたのだ。
「ここはどこだ」
「心配する事無いよ、ここは虹雅渓。あんたを襲う人なんていない」
「……」
それから三日ほどは警戒されていたが、ようやくキヘエ達が何処かへ
密告する気配がないと悟ると急に心を開いた。疑ってすまなかったと頭
を下げられた時はどうしようかと本気で困ったものだ。やがて身体がま
ともに動かせるようになると、どうしても恩返しがしたい、もしよけれ
ば店の手伝いをさせていただきたいと迫られた。
それ以来彼女はあっというまに仕事を飲み込み、今のような生活に溶
け込んだ。全く不思議な女がいたものだ、と女房と話し合ったキヘエは
しかし彼女を追い出すようなことはしなかった。ここで放り出せばあの
美貌の持ち主だ、きっと差配の手のものに連れ去られる事は必死だと思
ったのだ。
昼過ぎ時を利用してシズクに買い物に行かせた。彼女が行ってきまー
すとやる気があるのかないのか分からないような声で言いながら出かけ
てしまうと夜の開店にはまだはやいこの時間、店は閑散としている。女
房が皿を洗う音と筍汁を煮込む音が小さく響いていた。
と、そこに暖簾をくぐってきた者がいる。随分早いお帰りだなシズク
と言い掛けて言葉を飲み込む。入ってきたのは侍だ。表の看板を“準備
中”にするのを忘れたかとかるく溜息をつきながら席についた男にご注
文はいかがなさいますと問うた。侍はにこにこと笑い、注文どころかお
願いをしてきた。薪割りをするから代わりに飯を食わせてくれと。
唐突の事でびっくりしたキヘエだが、歳のせいか薪を割るのもそろそ
ろシズクに頼らないと身体が持たなくなってきたので、これ幸いとばか
りにお願いした。飯内容はたまたま材料が残っていた定食のそれでいい
だろう。妻に裏口へ案内される侍をみながらそう考えた。
キヘエに頼まれて近くの八百屋へ使いに出た帰り、いつもは見かけぬ
幟が立っていることに気付く。“命売ります”の文字を見て、彼女は興
味深そうにその文字を見つめた。不思議なことをする人もいるもんだと。
「そこの御仁、そうお主だ」
そういって道行く侍に声を掛ける壮年の男が一人。旅一座なのだろう、
急ごしらえの小屋の前で突っ立っている。小屋の中には様々なものが雑
然と置いてあるようで、その暗闇に紛れるように何人か仲間が座って男
の話しかけているさまを面白そうに見つめていた。
頬には切り傷があり、大柄な男はその顔を愉快そうに歪めながら侍に
話しかけている。着ている物はかつて大戦のころの軍服と似たような物。
しかも南軍の物であるようだ。腰には軍刀が下がっていた。
この男、侍なのだろうか。呆と聞いていると、どうやらその男は大戦
を潜り抜けたもので、いまや己の刀も芸事にしか使えぬと言って笑う。
そうして芸事の中で道行くものと賭けをしているらしい。話がついた
のか、やがて芸事の大一番を見せるという合図の銅鑼を鳴らした。なん
だなんだと人が集まるのを待ち、男はさぁさぁお立会い、と大声をはり
あげた。
弓矢で男の額を狙い、見事打ち抜けば男の命はここで一貫の終わり、
男が上手く弓矢を掴み取れば男の勝ち。往来の人々は興味深そうに侍と
奇妙な男を交互にみやる。長弓を構えた侍は、面白いとばかりに弓を引
き口角を吊り上げ男を見据えたまま突然にひょうと射る!
見物人の中で、芸事の男が死ぬと思い込んだ女達は言葉にならない悲
鳴をあげて顔を手で隠し、あるいは顔を背ける。だがシズクは真っ直ぐ
に射られた男を見つめたままだ。動ずる気配は微塵も無い。
あの男なら、取ってみせる。そんな確信がどこかにあった。彼女の思
ったとおり男は額の直前で矢を掴み取り、恍惚とした表情を浮かべて快
楽に身を任せている。一座の仲間は観客の歓声を得て方々に礼して回っ
ていた。おひねりがつぎつぎと彼の元へ飛ぶ。
そんな中シズクは冷めた目つきで男を、呆然としている侍の方を見る。
「元気なこったな。大戦は終わったっつぅのに」
誰へともなく呟き、抱えていた野菜をもう一度持ち直して人ごみへと
消える。先ほどの芸事をしていた男がじっと彼女の背中を見つめている
ともしらずに。
ここは人ごみが多いほど物騒な場所でもある。だから故にシズクは早
々に居酒屋へと戻る。キヘエにねぎらいの言葉をうけながら荷物を手渡
すとこれから少し時間があく。彼女は戸惑うことなく自分にあてがわれ
た部屋へと戻った。
三畳ほどの部屋は布団と着替えと、細長い包みが一つあるだけ。あと
は殺風景をまるで絵に描いたかのような室内。丸めた布団をソファに、
シズクは着替えの一番上にあった服に着替えて、ついで壁に一枚だけ貼
り付けられた写真を見やる。色あせたそれには彼女を含め四人が写って
いた。
それは随分と色褪せた写真で、右上のほうなど、日に焼けて色が飛ん
だ上に破れてしまっている。
「今日も生きてるよ」
シズクは、静かに手袋をした左手を右手で包み込んだ。それから何か
を吹っ切るように階下へと消えてゆく。彼女の頭の中には一つの言葉が
浮かんでいた。
侍の時代は終わった。なれど戦場を恋しく思うこの、己の浅ましさよ。
先ほどは用事があったために通り過ぎてしまった道をもう一度もどる。
こうして自由に街を歩いて回れるのは一週間のうちでも片手で、しかも
指三本で数えられる程度。情報を手に入れつつ、のんびりとこの街での
生活を謳歌しまくっていたシズクである。
その生活の中で絶対怠らない事があった。差配がいるこの街は上下層
に大きく広がっている。人気の無い場所を見つけるなぞ、容易というも
のをまさに体現するかのようだ。そこで一人、もはやいつ必要になると
もわからないのに、剣の修行に明け暮れた。
女だと悟られればこのお世辞にも治安の良いとはいえない街の中、ど
こに連れて行かれるかわかったものではない。故に男物を着て歩いてい
た。女にしては長身痩躯な彼女にはぴったりの代物である。
この街に住み着いてからは、シズクは髪を伸ばしていた。切るのが面
倒だった、でも構わない。昔はいつも戯れに父親やその友人に切っても
らっていたのだ。今は伸びた髪を三つ編みにして、それを首の周りに巻
いている。元から髪は細いほうで、一つにしてもごわごわしないのが彼
女の自慢だ。
まぁ、キヘエからはそんな辮髪みたいな髪型をして、清にでも仕える
つもりかと笑われたが。
「そこ、そこの御仁」
また聞きなれた声が聞こえてきた。あの死にたがりの男はまた若者ら
しい侍に弓を曳いてみないかと問うていた。問われている者はどうみて
も戦った事のない青二才であろうとみて、面白半分にこれから起こるこ
とを見ていた。
始めは意気揚々と弓を曳いた青年は、いざ男の額に向けると急に怖気
づいたのか、弓手が震えている。ありゃーだめだな、今更侍になってど
うしようってのかねぇ。シズクは皮肉気に顔を歪める。
額に丸を描いた男もいい加減面倒になったのか、撃て、と声高に叫ん
だ。途端、青年の手は離れたが、ついでに弓手も上加減にずれた。放た
れた矢は大柄な男のすぐ上の看板に当たり、なんとシズクのほうに飛ん
でくる!
「危ない!! 」
とは誰が言ったものだろうか。一瞬青年の鈍臭さに目が点になるも、
シズクはスッと目を細めてその矢を指二本で止める。摩擦に擦れた指
間が少し熱かった。
おぉっ、というざわめきを他所にシズクは芸事の一座のほうへ歩み
寄り矢を返す。すまぬな、と言いながら大柄な男はこちらを見つめた。
目立つのは面倒だから嫌だと思っていたのにバッチリ目立ってしまっ
た自分に腹を立てながら、シズクは言う。
「心配無用。おいそこの“自称”侍の兄さん。矢を放つ時に弓手をず
らすな。んな腕では守りたいものも守れやしねぇよ」
「……! 」
「では失礼する」
シズクは軽く双方に一礼してその場を離れようとした。がっちりと
肩を掴まれ踏み出した足が軽く空を切ったのがやけに滑稽に見える。
先ほどこけにされた青年はよほど堪えたのか、いつのまにか雑踏に紛
れ込んでいた。
「…何か用ですか」
「そなた、先ほどここで目も逸らさずにこの芸を見ておらなんだか」
「!」
迫る矢しか見ていないと思っていたのに。意外とこの男、用心なら
ないな。心内で小さく舌打ちしながら軽くすっとぼけてみる。
「何のこったぃ」
「空とぼけても某の目は騙されぬぞ、その顔しかと覚えておる」
にたりと笑んだ男の顔は人のよさそうなそれだ。だがその瞳は、かつ
て戦の只中に身を置いていた者の光を今も宿している。同じものを自分
もまだ持ち続けている事を知っていた。観客の輪は解かれ、人々の興味
はそれぞれの目先に戻った今、この男から逃げ出すのは簡単だろう。し
かしそうしてしまっては男に申し訳ない気がした。
「…全く…風変わりな御仁だな」
「そなたとて同じだろうが…おぉそうだ、某は片山ゴロベエと申す」
「シズク―近くの居酒屋で居候中の身です。以後見知りおきを」
「ほぅ――この街にはいつから? 」
「ほんの四年ほど前ってとこですかね――それまでは各地を放浪してお
りましたので」
長身であるシズクですら見上げてしまうゴロベエは、あいかわらず人
懐こそうな顔でシズクをみている。徐に後ろを振り返ったかと思ったら、
一座のものに出かけてくると言っていた。自分も何か奢らされるのだろ
うか。
心配は杞憂におわり、茶屋で茶請けと緑茶を啜りながら二人して和ん
だところでゴロベエが切り出す。
「して、女人の侍、しかもその若さでとは珍しい――なんぞ訳がおあり
か」
「女人の侍など、大戦の時代は掃いて捨てるほど居たじゃないですか。
ついでに若い若いとは言われますが、これでも三十路手前ですよ」
「なんと! 」
面白そうに目をむくゴロベエにシズクは肩を竦めて付け加える。幸い
茶屋の中には人が多く、店員が客の会話に気を向ける様子は見られない。
「今は侍を“休業中”ですけどね」
「訳を聞いても? 」
「――こんな時代だ、侍などなんの食い扶持になりましょう」
肩を竦めていう彼女にゴロベエは実に愉快そうに口を吊り上げる。確
かにそうだがお主、まだ侍というものを捨てられんのだろう? しかと
顔に書いてある。そういってからからと笑う。図星なので言い返さずに
苦笑するシズクに侍はまた笑った。
「はっは…時にお主、うちの一座で出し物をする気はないか」
「興味深い話だが、私は居酒屋で働いてるんで時間がないんですよ」
「暇な時でいい、某と簡単なチャンバラをするだけだが」
「……」
「夜一人で刀を振り回すだけでは面白みがあるまい? 」
「見てたんですか」
「この街は広いようで狭い。たまに歩けばそういうものにも出くわす」
某では修行の相手にもならんか、ん? そう言われるととても耳が痛
い。渋々了承するとゴロベエは楽しそうに今度シズク殿の店にお邪魔さ
せていただこうと言った。
一座の暖簾をくぐると、そこは不思議な世界でした。なんていうお馴
染みな言葉では言い表せないほど、中には様々なものが置いてあった。
三味線、小太鼓、篳篥、龍笛、笙もあったし、なぜかジャンベやカホン
もあった。これらは誰がやるんだい、と聞いたら全員の手があがる。唯
一手を挙げなかったのがゴロベエ。音にあわせてチャンバラを披露する
のだ、といって笑う。
面白そうだ。軽く口の端を吊り上げて女は思った。
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