女神に連れられてオリンポスからの階段を駆け下り、その辺に放っておいたコ
ートを引っつかんで辰巳が待っている麓まで一気に下山した。女神の性急さに戸
惑いながら、しかし彼女を邪魔するでもなくついていく。
「お嬢様!」
「辰巳、ぐずぐずしている暇はありません」
急いで聖域まで私を送って頂戴。車のエンジンをかけるのをも待っていられな
い様子で沙織はらしくもなく地団駄を踏む。助祭の衣装を脱ぎ捨てながらリタは
窓越しに話しかける。
「アテナ、私は一足先に聖域へと戻っております」
「あぁ、ならば辰巳、私はリタと共に聖域へ戻ります」
貴方はそのまま日本で待っていてください。そう叫ぶなり、彼女は一度乗り込
んだ車から半ば飛び出すようにまろびでた。アクセルを踏みかけていた辰巳は驚
いた様にブレーキをかける。女神の身体をうまくキャッチしたリタが、そのまま
踵でくるりと方向転換をして一気に駆け出す。
「お、お嬢様ぁ!」
ぽつりと残された辰巳は、一瞬呆気にとられて呆然としていたが、慌てて聖域
のあるアテネ市へと車を発進させた。リタの速さは音速を超える。それに少しで
も追いついて、自分の成すべき事をせねばならないことに気がついたのである。
砂埃を巻き上げて走り去っていく車を見送る様に立っていたヘルメスが人間とい
うものはよくわからんな、と呟いて肩を竦めながら山へと消えていく。
神
「魔鈴!魔鈴とシャイナはどこです!」
「ここにいるよ」
双魚宮を抜けた頂上でリタの腕から降り、教皇宮までの階段すら走る時間がも
ったいないと、沙織は小宇宙で聖域全土に語りかけた。幾ばくもしないうちに現
れた魔鈴とシャイナ。それに何だ何だと集まってきた青銅聖闘士達に沙織は言っ
た。
「この聖域付近にペルセポネがいらっしゃるはずです」
急ぎ見つけ出してここへお連れしてください。そう言うなり、彼女はリタに詳
しい事情を頼み、急いで教皇宮の奥へと駆け出した。その様に呆気に取られてい
た聖闘士達は次いで低い声で話し始めたリタへと視線を注いだ。
「アテナの母君であらせられるメーティスに、ペルセポネが助力してくださるの
ではないかとの神託を与えられた」
一瞬後にざわめく一同。その声を当然のこととしてざわめきが収まるのを待ち、
リタが続きを話す。しかしながら、この聖戦で生き残った聖闘士のなんと多い事。
前代から伝え聞く代々の聖戦で生き残る聖闘士は五にも満たなかったという。
これもアテナによる僥倖なのだろうか。
「ペルセポネがどちらにいらっしゃるのかはまだわからない。覚醒なさっていな
いのかもしれないのだ。故に、常に小宇宙を燃やし、微弱な小宇宙でも感じたな
らばその場所へ言って確認をせよ」
確認するために必要なものは小宇宙だけだ。小宇宙があるものはもし違ってい
てもつれてきて構わない。直々の確認は女神に行ってもらう。違っていた人間は
記憶を多少操作してもといた場所へ連れ帰れ。
それだけ言うと、リタは一呼吸置いて、次の言葉を吐き出した。
「では教皇代理である南十字座のリタの名において命ずる。ゆけ」
聖闘士達は、頷くと瞬時に姿を消した。その様子に満足しながら彼女は踵を返
し、アテナの神殿へ進む。アテナは既にニケの杖を持って玉座に座していた。そ
の前にゆったりと傅いたリタは、聖闘士達は探索隊と一緒に参りました、と奏上
する。
「ありがとうございます」
「聖闘士達はそれぞれ、各地へと参りましたので私はここで貴女をお守り致した
く」
「…そう、ね」
リタからは沙織の顔は見えなかった。傅いた姿勢で俯いていたからだ。沙織は
アテナとしてではなく、沙織として彼女の置かれた立場を悲しく見ていたのであ
る。本当は自分が見つけたかっただろうに、教皇代理という役割を押し付けてし
まった為にここにいなければならない。
なんと哀れな。そう考えたところで、己の思考に気がついたように口元に手を
当てる。今のは本当に沙織としての意思であったのだろうか。それとも、女神と
しての己であったのか。それを知るのは彼女自身であって他人ではないのだ。
「では、失礼して」
アテナの目の前で小宇宙を燃やしたリタは、己の聖衣を呼び寄せた。パンドラ
ボックスが瞬時に目の前に降り立ち、まばゆい閃光とともに開く。中からは、リ
タの守護星座である南十字星の聖衣が姿を現す。カシャン、と音を立てて聖衣は
彼女の身体に装着された。
女神へ一礼して、リタは聖域の麓へと降りていく。麓のコロッセオでは雑兵達
が困惑したように集まっていた。リタの姿を見つけて皆次々と傅いていく。
「あぁ、私はそんな偉いもんじゃないから傅かなくていい」
「しかし」
まぁまぁ、と笑いながらリタは雑兵達へ、今回なぜ急に聖闘士達が探索隊と共
に聖域を出て行ったかを説明する。聖戦で散っていった聖闘士達が帰って来るか
もしれないという微かな望みをのせて。
「…ということで、今ここに残っている聖闘士は私のみ。彼等が帰って来るまで
は、貴方達にこの聖域の守護を任せねばならない」
見回りと警備、しっかり頼みましたよ。そう言うとにこりと笑いかけた。不安
そうな顔でリタを見ていた雑兵達は、ぼそぼそと何か言い合っていたが、やがて
己のすべき事を上級兵に割り当てられ慌てて散開した。
上級兵達には、貴方達の指揮のお陰で私達も安心して戦えているのだ、という
ことを惜しみなく伝え、これからのことを労いながら白羊宮へと続く階段を登り
始める。
そういえば貴鬼はこの宮で帰らぬ師の代わりに聖衣の修復に当たっているのだ
ったな、と思い出して居住区の先の修復区へと足を踏み入れる。幾つもの棚、幾
つもの聖衣の残骸を目の当たりにして思わず苦笑した。
一番奥にある、ジャミールの垂れ幕をくぐろうとしてその脚を止めた。中から
はカツンカツンと鎚を振るう音が聞こえてくる。それ以上に彼女の足を止めたの
は、その真剣すぎる小宇宙であった。牡羊座の元に生まれた性なのだろう、他者
を寄せ付けぬ意志を醸し出すそれに邪魔は不要と考え、踵を返そうとすると、中
から少し大人びた様な声音が響いてきた。
「リタ?」
「すまない。邪魔をしたのなら謝る」
「いいよ」
丁度休憩しようと思ってたし。そう言いながら立ち上がる気配がして、やがて
垂れ幕をくぐる様にして出てきた影。もう半年以上も前から、この子は一人でこ
の宮に住んでいる。たった一人で帰らぬ師の代わりに修復を続けながら。
応接室に通されて、そこにあるソファへ腰掛けた。貴鬼は少し疲れた顔でリタ
に問う。
「何か飲む?」
「あーっと、気遣わなくていいよ」
「おいらが飲みたいからついでだよ。リタこそ気遣いは無用だよ、教皇代理」
くすりと笑んで、少年はジャミールの臭いの消えないキッチンへと消えていく。
応接室の内装は随分と様変わりしていた。ムウがいた頃は、きちんと整理されて
いた物があちらこちらに散乱している。きっとこの情景は貴鬼の心の状態を示し
ている。白羊宮から一時でてこなかったことがあった。小さいながら小宇宙が膨
れあがったりしていたのを数ヶ月前までよく感じたものだ。
全ては、黄金聖闘士という星の定めの下にうまれた自分達ではなく、聖戦をお
こす神々のわがままによっておきたことなのに。師を嘆き、運命を嘆き、己の力
のおよばなさを嘆いた。瞼にうかぶ。そうしてでしか、己の中のやりきれない思
いを吐き出し様がなかったのだ。
「チャイでいいかな…あまりうまくはできなかったんだけど」
香ばしい臭いと共に盆をもった貴鬼の姿が現れる。
「ありがとう貴鬼。美味しそうだ」
頂きます、と呟いて手を合わせる。その所作を不思議そうに見る貴鬼に笑いな
がらこの両手を合わせるのは日本の食べる前の礼儀でな、と言うと、少年はそう
いえば星矢達がご飯を食べるときにそれをしていた気がすると呟いた。
「これはこの食べ物の命を頂くという意味と、大地の糧を頂くというアニミズム
に由来しているそうだぞ」
「へぇ」
「まぁ、他人の受け売りの受け売りだから正確ではないだろうがな」
「でもそれ、仏教で仏に祈るときと同じ作法だね」
「そういえばそうだな」
じゃあ僕も。そう言いながら両手を合わせながら頂きます、と貴鬼は呟いてチ
ャイを飲み始める。そのまだ稚い様を見て、自分が世話になっていた孤児院を思
い出してリタはふと笑った。懐かしいものだ。あれから幾年がたっただろうか。
きっと今も孤児院の皆は自分の帰りを待ちながら毎日を過ごしているだろう。
そんなことは御くびにもださなかったイザベラを思い出して心の中で苦笑いをす
る。
「そういえば、リタ」
「ん?」
「何か手がかりは見つかったの?」
「黄泉帰りの法、か」
「さっき、聖闘士のお兄ちゃん達が皆一斉に階段を駆けて行ったから」
あー、まぁ、方法が見つかったというかあれだ、一縷の望みを託せるお方がい
るかもしれないってだけなんだけどな。困ったように頭をガシガシを掻きながら
リタは応える。オリンポスであったことなど言えるはずがない。ゼウスは大神と
して世界の規範を曲げる事を厭うた。一度死の国へ行ったものはハーデスの許し
無しには生者の世界へ出ることは叶わない。
まして魂すら消し飛んだ黄金など、不可能に近い、などと。
「そっか…」
「貴鬼、最近ずっと修復でこもりっぱなしだったんじゃないのか?」
「?」
「一度ジャミールへ帰ってみてはどうだ」
「……」
言ってしまってからしまった、と内心で臍をかむ。ジャミールへ戻ったとして
もそこにムウもシオンもいるわけが無い。尚更孤独を感じてしまうだけだという
のに。これでは貴鬼を追い遣るだけではないか。
「すまない。今のは聞かなかった事にしといてくれ」
「…ううん、ありがとリタ」
おいら、そろそろ続きをしてくるよ。これから白銀の聖衣にかかるんだ。黄金
はほぼ全部終わらせたんだよ、すごいでしょ。そういいながら貴鬼は立ち上がっ
た。一年も経たないのに、ずいぶんと大人びて見えるその顔を、リタは何も言え
ずに見送る。
応接室の窓からは、午後も後半にさしかかった夕日がさしこんでいた。
リタは今一度教皇宮へと駆け上がる。そこから横へそれて、神官達が勤める院
へと脚を踏み入れた。訪れを請う声に反応してすぐに女官が出てきた。リタの姿
を見るなりどうぞ、と先に立って歩き出す。神官たちの勤める院は冷たく静かだ。
それは、教皇宮とは違った冷たさを持っている。教皇宮は戦う者がもつ厳しさを
宮のそこかしこから感じるが、この神官達の院は宗教性のある神性さというのだ
ろうか、厳聖なる冷たさが横たわる。
「これは教皇代理」
「もうその名で呼ばないでほしい。もうすぐ私はただの聖闘士に戻る」
「そのような確証はおありで?」
神官の長がゆるりとした笑みをたたえながらこちらを見ている。しかしその目
はリタが教皇代理として道を踏み外さないか、厳しく監視するもののそれであっ
た。
「さてな」
出された紅茶の香りを嗅ぎながら一口飲む。相変わらずいいものを使っている。
神官達も現代の暮らしから離れてこの様な場所にいるのだ。ふとしたものに金を
使うことくらいは目を瞑っている。
「私は貴方から見て、まだまともな仮政をしけたろうか」
「…はて、これは異なことを仰られる。私共は女神にお祈りすることが義務」
あなたを評価できるような立場にはおりませんよ。神官の長は冷静に言う。冷
たい双眸が射抜く様にこちらを見据えているのにも関わらず、その笑みを絶やさ
ない。
「御託はいい」
聖戦が終わってから何度も私に嘆願書が届けられていたのだが。その意を聞こ
うか。シオン達が帰って来ていない今、貴方達がこの聖域の教皇を勤めることが
常識と考えている者がいるようなのでな。
「おやおや…私の元にいてまだそのような事を言うやからがおりましたか」
「私が教皇代理であることを見て、今なら己の意見が通ると思ったかもしれない
な」
そして、まことに申し訳ないが長よ。この嘆願書を出した者について聞こうか。
ビロード張りの椅子の肘掛けに頬杖をつきながらリタは不敵に笑む。
「私は残念ながら先の九年間、シュラやデスマスク達と共にサガに仕えていてな」
神官達の筆跡の手紙を幾度も読んだものだ。くすくすと笑いながら言う。神官
の長は不思議そうに顔を傾ける。
「…では貴女はまず、女神に抵抗した罪をお持ちだと仰るわけですね」
「…その話は後だ。とりあえず、このサインの癖を見てもらえると嬉しいな」
とんとん、とサインの場所を人差し指でつついて、笑みは崩さずに長の目をま
っすぐに捉える。長は訝しげな顔をしてその筆跡を見た。じっと見つめた後、理
解できないとばかりに首を傾げてリタに問う。
「名前は毎回違うが同じ人間が出している。癖が同じだ」
「おや」
「見抜けないとでも思ったか。私を試しているのならば、これについての評価な
ど私には必要ない」
私は場繋ぎにすぎないからな。そう言って、立ち上がり様に長の胸元の十字架
を指先でつ、と触れながら低い声で続けた。
「まもなくペルセポネが見つかるだろう。貴方達にはせねばならぬことが山積み
のはずだが。次は見逃しはしない、と伝えておけ」
そのまま振り返りもせずに神官院を後にした。
少し苛々とした感情を八つ当たりのように言ってしまったな、と後ろめたい気
持ちのまま教皇宮を通り過ぎながら教皇宮つきの女官にペルセポネを迎える支度
の指示を矢継ぎ早に行う。侍従達も大急ぎでばたばたと走り回っていく中をすり
抜けて、今か今かと待っている女神の元へ向った。
「アテナ」
「幾人かの聖闘士達が戻ってきましたよ」
見ればアステリオンを始めとする魔鈴達以外の白銀聖闘士がそれぞれ幾人かの
一般人を連れて帰って来ていた。連れて来られた側はおどおどとし、この建物や
土地は一体何なのか分かりかねてあちらこちらへと視線をやってはリタの顔を恐
ろしそうにみてくる。
「彼等の中にペルセポネの小宇宙はありましたか?」
「それが…」
残滓しかなく、彼等はペルセポネと対話することもなく拠り代の役目を終えて
いたというのである。通常ならばおかしいことだ。アテナは沙織に、ポセイドン
はジュリアンに、ハーデスは瞬一人に拠り代を定めているのが普通だ。なのにペ
ルセポネは幾人もの拠り代を必要とする…。
「今の拠り代を探さないことには、今は何もすることができない、か…」
「リタ、この人達はどうする?」
「アステリオン、お前ちょっと…」
不思議そうな顔でリタの側に寄ったアステリオンはリタからの耳打ちにはっと
顔色を変えて彼女を見つめ返す。
「お前、」
「もしできるならばでかまわない」
出来ない場合、彼等にはそれ相応の理由をつけてこの聖域に生涯留まって貰わ
なければならないだけだ。事も無げに小声で言い放つリタを呆れた様に見やった
男は肩をすくめながらつれてきた人間に隣の部屋でとりあえず一端お茶にでもし
ましょう、と言って隣室へ消えていった。
「リタ」
「記憶を操作するように申し付けました」
なぜならアテナ、この聖域は一般に知られてはならないこと。ギリシア国民な
らばともかく、周辺の国民は知らなくてもよいことなのです。知るべきは国のト
ップだけでいい。その言に頷きながらも不安そうな彼女にリタは笑いかける。
「アステリオンはサトリの法を得ています。第六感のもっとも優れたあいつなら
記憶操作など造作もないでしょう」
「そう…ですか」
アテナはそういいながら、深く瞑想し始めた。己の小宇宙に少しでも引っかか
る気配はないかをその膨大な力でもって探し始めたのだ。
結局、それから数週間すぎても小宇宙の持ち主は見つからなかった。探捜努力
は全くの無駄となったのである。
なぜなら、ペルセポネは自らの脚で聖域に来たのだから。
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