初めてあったのは、海辺の小さなカフェでのことだ。
男は仲間の一人であるバブルに、たまたまチケットが余ったから一緒に来ないか、と誘われて研究所からわざわざこんなところまで出かけてきたのである。バブルとは水質系であるところからよくつるんでいた。
「やたらとこだわった場所にくるな」
「僕がね、彼女とよくお茶してる店なんだ」
彼女も水質系でね、海難救助の仕事をしてるらしいよ。たまの休みに此処で歌うのが楽しみなんだって。説明など聞き流していた。こいつとは、そんなことをしていても許される。ハイボールを飲みながら、男は店内を見渡した。
小さいながらレイアウトを考えて室内が広く見えるように工夫していて、それでいて圧迫感がない。自分の部屋であるかのような安堵感がどこか漂っている。ざわざわと少ないながら客達は互いにこれから始まるであろう彼女の歌声を楽しみだね、などと話し合っていた。
「お、あんた今度はお友達と一緒かい」
「そう、ちょっとドタキャンされちゃってね」
「あっはっは、色男に泥塗られたってことか」
「いやー、兄弟だからそんなことないさ」
既に常連であるらしいバブルは、たまたま隣に座ったおっさんと何か話している。ここでは男は完全にアウェーであった。正直さっさと帰りたい。
「おいバブル、裏に行かないのか?むしろ手伝ってよ」
カフェのオーナーらしき壮年のおっさんがにこやかに彼に話しかける。バブルは、今日はお客さんだよ、残念ながら。などと言って笑ってチケットをふりふりオレンジジュースを飲んでいた。
「どうしたのウェーブ」
「いや」
いつも物静かな印象を受けるバブルが、ここでは快活に話しているのを見るのは新鮮だった。それを見てあとで仲間達に話してやるのも悪くない、と微かに笑いながら男はハイボールのグラスを傾ける。
「あ、」
バブルの声が聞こえるが、また何か友人にでも話しかけられたのだろう、と男は高をくくって、もはや暗くなった海を見つめていた。
その瞬間である。
青く、透き通る歌が彼に衝撃を与えた。
Look at me!
I'm as helpless as a kitten up a tree
And I feel like I'm clinging to a cloud
I can't understand
I get misty just holding your hand
Walk my way,
With a thousand violins begin to play
Or it might be the sound of your "Hello"
That music I hear,
I get misty, the moment your near
You can say that you're leading me on
But it's just what I want you to do
Don't you notice how hoplessly I'm lost
That's why I'm following you
On my own,
Would I wonder through this wonder land alone
Never knowing my right foot from my left
My hat from my glove,
I'm too misty and too muoh in love
引用
http://d0v0b.info/contents.html
思わず海から視線をそらして、歌声の流れる方を見やる。そこには、一人の女が立っていた。ステージに立つために少々化粧は濃い目にしているが、その姿はとても美しかった。男が余りにも素早く顔をそちらに向けた為に一瞬目があったが、何事もなかったかを装って男は目をそらす。女は特に気にした様子もなく歌を続ける。
次は誰でも知っている、有名な歌。あの虹の向う。男はもはや女を見なかった。なのに、あの一瞬の姿が目に焼きついて離れなかったのである。
「よかったねぇ」
「…」
「あれ?気に入らなかった?」
「そうじゃない」
「よかった。一瞬びっくりしたみたいな顔して振り向いたから、何があったのかと思ったけど」
こいつ、意外と良く人の事見ていやがる。隠れて溜息をつきながら男は友人を見やる。バブルはにこにこと笑うばかりだ。海からの風で、横にながしている風がなびいていた。いつもこんな中性的な顔立ちで、外でこまったりしないのか、と常日頃不思議に思うが、そこはそれ、彼の弟分にあたるあの青年が騎士道精神まっしぐらに護衛でもしているのだろう、とどこかで納得している。その証拠に、近くに止まっていた車のウィンドが開いてこちらに声をかけてきた。
「バブル」
「インタビューはどうだった?」
「いつもどおりさ」
乗れよ、バブル、ウェーブ。てっきり自分は無視されると思っていたが、そんなことは無かったようだ。だがここで乗ってしまえば馬に蹴られる…いや、きっとこの兄は不機嫌になるだろう。
「俺は用事があるから先にいけ」
「えー?しょうがないなぁ」
バブルは困ったような顔をして助手席に乗り、車は豪快な排気音を立てて走りさっていった。
後に残った男は暇だ、と呟いて海に向き直るとスタスタと歩いていく。
暗い海は何かを飲み込みそうで、だからこそ惹かれる。昼間の海も好きだが、男はどうしてもこの夜の海の方が心が落ち着くのであった。ポケットから赤マルを取り出して火をつける。独特の臭いがあたりにたちこめた。
男は煙草を吸う時は必ず中指と薬指の間に挟むのが癖である。人差し指は決して使わない。その指はスイッチだからだ。心の、スイッチ。
砂浜は夜になると掌を返したかのように冷たくなる。まるで人間のようだ、と一人笑った。昼間に街をあるいていると必ず声をかけられる。それはホストにならないかという勧誘から、お兄さん今暇?という今では懐かしい逆ナンのようなものまで。だが男は心を許した者にしか口を開かない。わざわざ見知らぬ者に自分の本性を知らせる必要はないのである。
夜の帳の中、波の音だけが耳に響く。
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