ある日の夜中、魘されていたサッチは思わず飛び起きた。体中が寒気でなのか、鳥肌が立っている。思わず両腕で身体を抱きしめるように擦って、そこで初めて全身に汗をかいている事に気付く。一体あの夢はなんだ。いつも夢など目が覚めたら記憶の彼方に消えていってしまうというのに、今日の夢はくっきりと脳裏に残っていた。
夢の中でサッチは海ではなく、暗闇の中にいた。暗闇ではなく、だんだんと薄れていく意識の中とでもいうのだろうか。がたがたと震える腕を伸ばして、涙して、もはや出ない声を小さくあげていた。
ごめんな。ほんとにごめん。
何故だか無性に悲しくなったのを覚えている。一体あの夢は、近頃見るこの焦燥にかられる夢は一体なんなのだろうか。まるで何かを耳元で叫ばれているような、そんな気分になる。
暗闇の中、自分の口元に手をあてて驚愕と恐怖の為に上がっていた呼吸を整える。暫く時間がたってからふと自分の身体を見下ろす。Tシャツにトランクス一丁。特に問題もなにもない。だが、夢を見たことで身体の奥から何かが湧き上がるような気がした。何かに対する、狂おしいほどの。
「…一体、なんだっつんだよ…」
両手で顔をおおい、立てていた膝に腕をのせてサッチはベッドの上で蹲った。
久しぶりに外に飲みにでる。繁華街から一本それた道の、ラーメン屋の角を曲がった奥にその店はある。眼鏡をかけた初老の男と、いくつなのか検討もつかない夫婦が経営しているバーだ。いつも冗談でシャクヤクは一杯百万円ねと笑いながらスコッチのショットをチェイサーと共に出してくる。
二人ともサッチのことをよく知っていて、たまに店にも来てくれる。客が既に何人かいるというのに、旦那の方がカウンターの中にいることが珍しくて、思わず口をついてでた。
「てかアンタが店にいるのはじめてみたよレイリーさん」
旦那であるレイリーという男は顎を撫でさすりながらそういえばそうだったかな、とくすくす笑う。大抵パチンコやどこかの飲み屋でその姿を見かけるのだ。パチンコでは、海の台を前にいつもどうやったらこんなに出るんだというくらい玉の箱を積み重ねているときがあれば、かっすかすでいらいらと煙草をすっていることもある。
大抵会えば、今日の台の玉の出はどうだという話しと、あっちの種類はどうだ、確定がなぁ、隣の人とあわせて相殺されたよ畜生、みたいな話しをするが。
「今日は何か元気がないねぇサッチ」
「そうかぁ?」
カウンターのスツールに座ってスコッチのグラスを手の中で弄びながらサッチは不思議そうに返事を返す。普段と同じつもりでいたが、一体何をどうみて彼等はそういったのか。レイリーが売り物の酒瓶の口をあけて一口ラッパすると、口元を手で拭いながら笑う。
「パチンコで相当すったときもそんな面しないぞ、サッチ」
「どんな面だよどんな」
この顔は一つしかねぇんだ、しかも毎日鏡と睨めっこしているのだからすでに見飽きている顔だ。それを心配そうに覗き込まれるのだからたまったものではない。ついでにこの面を持ってして、女にもてたためしもない。故に話し口調などでカバーしている有様なのだ。
グラスを磨きながらシャクヤクがくすくす笑いながら意味深な視線をこちらに向けて言う。あなた、彼女か何かに振られたみたいな顔してるわよ。彼女といわれても決まった相手はいない。たまに同伴をせがまれて付き合ってやる女友達が数人いるくらいだ。他は客とか。
「振られたっつっても、そんな覚えもないしなぁ」
だいたい付き合ってくれる奴なんぞいやしねぇよとサッチは困ったように笑う。その言葉にレイリーは逆に驚いた様な顔をした。ほう、お前親友はおらんのかと。無くなったスコッチの代わりにジャックダニエルのロックを差し出してきたシャッキーに礼を言いながらグラスをゆらす。うすらと溶けた氷が店の明かりを反射してきらきらと輝く。
「親友…ねぇ」
高校のころもそれ以降も、親友と呼べる奴はいなかった。自分が常に一線を引いていたからだと知っている。心のうちを何もかも曝け出せる様な相手は、どうしても見つけられなかったのだ。だから軽口を叩きながらも、つねに友達の輪からはずれて見つめる側だった。無理矢理その輪にひきずりこまれることがほとんどだったが。
「まぁ、そのうち見つけるさ」
「だいぶいい年してるくせに」
「お互い様でしょうが」
沈黙がおりた。背後でカップルらしい二人が仲良く手を擦り合わせて笑っている。その二人に目を向けたレイリーは徐に声をかける。なぁロジャー、お前そういえば最近息子に会いに行ったのか。声をかけられた男はあー、最近見に行ってないなぁと声を返した。
「あいつ最近うちにいないんだよ、帰っても」
「どういうことだ」
「大学で下宿してるんだと」
なんだか、自分とは関係ない話なのに耳を傾けてしまう。ロジャーという男は奥さんといつも海外にいるらしく、今回ここにいるのは仕事の都合で帰国したからに他ならないそうだ。それにしても、とロジャーは立派な髭をつまんでなでながら呟いた。
「お前、サッチだろう?」
突如声をかけられて振り向いた。男はにやにやと笑っている。懐かしいなぁ、お前昔からそのリーゼントなのはかわらねぇのなぁ、と笑う。レイリーがこらロジャー、人をからかうもんじゃないと嗜める。なんだとこらレイリー、俺の船からお前おろすぞ!という声がだんだん背中に近づいてくる。
「昔あったときはまだ青いケツのガキだったくせになぁ、」
「お前、サッチと会った事あるのか?」
隣にどすんと腰をおろしたロジャーにレイリーが不思議そうに問う。室内に小さくかかっているのファイブ・スポット・アフターダークだ。トロンボーンの深く凛々しい音が耳をなでていく。ロジャーはレイリーに俺もジャックダニエルくれ、といいながらサッチの方を向いて頬杖をついた。
「お前はまだか」
「……は?」
「いや、なんでもない、忘れろ」
いやこのおっさん急になれなれしすぎだろうどう考えても。初対面からなれなれしいのはサッチも同じだが、このおっさんはいつか図書館であった女性と同じようにサッチのことを見知ったように扱う。まるで古い知己であるかのように。
「なぁ、あんたってさ、俺と会った事あったかね?」
「ねぇんじゃないかな」
「ならなんで」
「俺はお前を知っている、だがお前は俺を知らない。まぁそれだけのことさ」
ロジャーがにぃっと笑って言った。あぁそうだ、海の夢を見たことがあるかお前。
「海の夢…」
「もし思い当たるなら、それは前触れだと思っておけ」
前触れ?
「海の夢は海を誘う。そして遠くの思い出を呼び寄せるのさ」
男はししし、と笑って立っていってしまった。
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