漣の欠片が視界を横切る。
潮騒が響く。大海原を掻き分けて進む世界。焼けるように熱い日差しを突きつけてくる太陽に、エメラルドグリーンのさんご礁が遠くに見える青い海。自分は小さな船に乗っていた。こんな大海原に、小さな手漕ぎボートである。
周囲を見渡しても、限りなく広がる海がそこには横たわっている。白い鴎がゆったりと空を飛んでいるのが見える。
どうしてこの世界はこんなに自分を惹きつけて止まないのだろう。初めて見る世界であるはずなのに、その総てが己に向って訴えかけてくるのだ。サッチ、忘れてしまったのか、私達のことを、お前を取り巻いていた世界を。
サッチはその世界を前に、ボートの上で呆然と座り込んでいた。こんな途方も無く大きく広がる海を前に、湧き上がる感情が一体何なのか考えていたと言ってもいい。不意に海が揺れて、ゆらゆらとゆれて、視界は真っ暗になる。
何かが遠くで光っているのが見える。あれはなんだ。暗闇で一つ、たった一つゆらく青い光。あれはなんだ、あれを手に入れれば、自分の飢えが収まるのだろうかと暗闇に落ち込んだ思考で考えた。
必死に手を伸ばし、進まない自分の身体を叱咤しながらもがいてもがいて。あげくに伸ばした手が掴んだのは残念ながらその忘れてしまったものではなく、ソファの側にあったローテーブルの脚。しかも上には雑誌が重ねて置いてあったものだから、引っ張った拍子に揺れて、ばさばさと盛大な音と仲良くサッチの頭上に落ちてきた。
「いっ、」
その衝撃に声がでて、自分の出した声の酷さに驚いて目をあける。そこは知らない部屋で、見知らぬ家具に見知らぬ空気、見知らぬソファに見知らぬ雑誌の山。
ここは一体どこだ。頭を思わず持ち上げて周囲を見渡すと、昨夜の名残か視界がぐらりと揺れる。次いでやってくる頭痛と寝るまでの記憶がないことを鑑みれば、飲みすぎたことは明白だった。堪らず頭を抱えて唸っていると、まだ眠そうな声が降って来た。
「起きたかよい」
「!」
再び頭痛を酷くしないよう頭を揺らさず慎重に視線をそちらにやると、近くにあったベッドの毛布がごそごそと動き、特徴的な髪型が姿を現した。その頭を見て、どっかでみたことあるなぁと濁る頭で考えていたらその相手は此方を認めたのか、身体を起こした。
あ、そうかこいつ同じアパートの。そこまで思い出したところでついでこの部屋のつくりに見覚えがあることに気がつく。内装は向きこそ逆だが間取りなどは完璧自分の部屋と一緒である。だから初め、とくに違和感もなく目を覚ましたのだろう。
男はこちらの様子を探ってちゃんとおきていることを確かめた後、ぺたぺたとキッチンまで歩いていって、コップに水道水を汲んで引き返してきた。無言で突き出してきたところを見ると飲めという意味らしい。
押し付けられるまま水の入ったコップを受け取り、口に含んだ。すると思いのほか喉が渇いていたのか、一気に総てを飲み干してしまった。その様子をじっと見ていたらしい男はじっとこちらを観察していたが、やがてベッドに腰掛けてこちらから視線を外していった。
「随分と酔ってたな、アンタ」
「…すまねぇ」
どうせ自分の部屋までたどりつけずにエントランスあたりで転がってたんだろう。よくもまぁこんな酔っ払いの赤の他人を部屋に入れる気になったものだ。するとまだ眠そうな目をしている男はそれがデフォルトなのか、変わった髪型の頭をぽりぽりと掻きながら言った。
「アンタ、よく見かける顔だからねい」
「?」
「同じアパートの人だろい」
いやまぁ確かにそうだが、まさか向うがこっちを知っているとは思わなかった。目を丸くしていると、男は苦笑する。アンタほど目立つ頭の人はそういないよい、と。残念ながらその言葉をそっくりそのままお返ししてあげたい。熨斗つけて返してあげたい。
まだ酒の残った身体を鞭打って、迷惑かけてすまなかったな、と立ち上がり様に頭を下げた。そして帰ろうと出口まで歩きかけて、ふと男が待てと声を上げたのをしる。振り返ると、ものすごく気まずそうに男は言う。
「たぶん俺が見つけるまで随分あっこで転がってたろい」
「…?」
「財布、とか」
その単語にばっ、とポケットに手を伸ばす。案の定、タランティーノ映画の真似をしていたのでポケット内で丸出しだった金は見事にもぬけの殻状態で、思わず悲嘆の声を上げる。部屋のドアがナンバー式でよかったと思わなかったことは無い。
くずれまくったリーゼントに手をつっこんでガシガシと掻きながら、サッチは小さく舌打ちしながら困ったように笑う。でも、この男が介抱してくれたおかげでこうして自分は他人の前で醜態を晒すことなく寝ていられたのだ。放っておかれたらおそらく夜中に職務質問にあっただろうことは想像に難くない。
「金はしかたねぇさ、てめぇが悪いんだから気にしないでくれ」
「…」
「俺、たぶん迷惑かけたろ、酒癖悪いからな」
「…自分で知ってるなら飲みすぎるなよい」
呆れたような溜息と共に眇められては肩を竦めるしかない。ともかく、いつか礼くらいはさせてくれよと言いながらサッチはまだふらつく足を懸命に動かして出口まで歩いていく。男が背後から声をかけてくる。まだ足元ふらついてんじゃねぇか、無理すんなよい。
「だって今日平日だろ、アンタ仕事は」
「今日は俺ぁオフ日なんでねい」
そう言うと、男はもう一度布団にもぐりこむ。おいと声をかけるが、男は物凄く眠そうに呟いた。アンタも仕事がなければ酒が抜けるまで寝ていくといいよい、と。最後のほうはもう寝入っていたのだろう、すぐに寝息がきこえてきた。
っていうか、初対面の人間にそれって無防備すぎねぇ?物凄くそこを突っ込みたいが相手は既に夢の世界だ。あぁもうなんていうか、この人懐広すぎだろうと思いながらベッドまで近づく。
びしり、と固まった。
寝入る男の首筋にはまだ新しい紅色の痣があったのだ。
[3回]
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