楽しみだな、と笑う男の髪が風に揺れている。揺れるほども髪があったのかと頭の片隅で笑うがそんなことをおくびにも出さずにサッチも煙草の煙を空に向って吐き出す。不可思議な曲線を描きながら煙は宙を舞う。
沈黙が二人の間に落ちた。普段ならば何か喋らなければと言葉を捜すはずなのに、今この瞬間は何も口にしなくてもいいのだという確信がどこかにある。不思議だと思う。なんでこんなに気が休まるのか。エース相手だと何も喋らなくともエースが喋ってくれるし、サンジ相手だといろいろ気をつけねばならないことがあるし、ほかの人間だと、めったに心の底をさらさない。
物思いにふけるに十分な沈黙が心地いい。それにここの手すりは肘を乗っけるのにちょうどいい高さで、もたれかかりながら真上の空を見上げる事ができる。煙草の灰をとんとんと灰皿に落としながら、空で微かに瞬く星と、その空を横切っていく航空機の灯りを見つめていた。
隣にいる男はサッチに反して屋上から見える市街の明かりを見つめている。少し高台にあるため、繁華街の明かりが美しく輝いて見えるのである。ここからだと、ベルメールが働いているコンビニの灯りもよくみえる。徒歩五分なのにあんなに遠かったっけと思わずにはいられない。
あれ、この空気、すごいなんか懐かしい。ふとそう感じた瞬間に周りの景色が音を立てて変わっていく。起きたまま俺って夢が見れるのかすごーい、などと感嘆しながら見回す。自分は見慣れない服を纏っていて、隣にはさっきと同じようなポーズでマルコが立っている。視界がゆらゆらと揺れるのは、自分が船に乗っているからだとわかるのには一瞬間が必要だった。
視線を背後に転じると青い海。青い空。鴎が空を舞っていて、遠くにありえないほどでかい生き物がゆうゆうと首を擡げているのが見えた。
「ーーー!」
誰かが己を呼んでいる、と感じた。視線を背後から正面に戻すと、黒い髪の青年が爽やかな笑顔を全開にして駆け寄ってくるのが見える。あららあの顔どっかでみたことあるぞと思いながらサッチは頭をぼりぼりと掻く。しまったリーゼントが崩れっちまう、と思い至ったのにそれは既に後の祭り。
「ーーッチ、」
また声が聞こえた。その声は真正面から飛びついてくる青年のものとは違う。おかしいなこいつの声ってもっと錆が少ない声だったろ、と思いながらその面を見直す。また、聞こえた。今度は冷水を浴びせられるような冷静なもので、しかも肩をゆさぶられながらであった。
「おい、どうしたよい」
は、と気がついて周囲を見渡すとそこは屋上で、隣のマルコが眉を顰めて此方をみていた。そりゃ怪しむわな、と自嘲してマルコに向ってなんでもないと手を振った。疲れてんなら早く寝てしまえよいとマルコが困ったように笑う。
「なぁ、今俺何してた?」
「若年性アルツハイマーになったなら病院を紹介するよい」
いやそういう意味じゃなくてさ、俺今なんか見たんだけどと呟くと片眉を上げながらマルコがへぇ、どんな?と尋ねてくる。説明しようとして、こんな話をしたら余計に頭がおかしいんじゃないかって思われるだろうなぁと感じた。でもどう思われたって構うもんかという気持ちがどこかに巣食っている。
「俺とお前が何か、船に乗ってた」
「野朗二人で手漕ぎボートとかのりたかねぇよい」
「いや手漕ぎボートなら俺も遠慮したいわどうせなら、ってちげぇよ最後まで聞けよ」
びし、と突っ込みを入れてしまってから、あれ俺こんな突っ込みするのなれてたっけかと違和感を感じた。内心で首を傾げながらサッチは続ける。
「でっけぇ船でさ、しかも帆船」
「へぇ」
「ひろーい海の上だったな」
「そりゃ船は海に浮かべねぇと意味ねぇよい」
いちいち突っ込みどころを拾う奴だなお前、と目を眇めるとマルコはニタニタ笑う。それで、その帆船でどうしたってんだよい。と続きを促す様子に疑問を感じる。
「あれお前、俺のこと頭おかしいとか思ってたんじゃねぇの」
「いや?」
たしかに酔っ払って思考がぶっ飛んでたときのアンタは相当頭がおかしかったけどねい、と軽口を叩いてくる頭をとりあえずチョップしておく。いで、と声が聞こえたが欠片ほども気にしない。煙草を半分から根元まで一息に吸い込んでがはぁ、と吐き出してからそれでな、と話しを続けた。
「周りってか、人がいっぱいいた」
「……」
「なんでか今この体勢と同じ感じで煙草吸ってた」
そこで黙り込んだサッチを見て、マルコは目を細めながらどうしたんだよいと促す。サッチは何か考え込むようにしてぶつぶつと何か言っている。まるでこちらの声など聞こえていないかのように。
「…なんでエース?」
「エース?」
その言葉に我に返ったのかサッチはめんどくさそうに頭を掻きながら答える。うちの店に来てるバイト。元からいたバイトの先輩らしくてな。明日もエースとサンジと飯屋を切り盛りって奴ですよあんた、とまるでどこかのおばさんの様に手を振りながら笑うサッチの顔は随分と楽しそうだ。
「…へぇ」
「ところでよ、マルコ?」
「なんだよい」
「お前、酒は飲める口なの?」
唐突に聞くなぁとマルコは笑って、酒が飲めなきゃこうしてビールをかっぱらうこともしねぇよい、と若干ぬるくなっていたビールの缶を手にとって一息にぐぐいと飲んでいく。あ、っていうかそれ俺の酒。
「よーくわかったから俺のビール返せこの野朗」
「屋上で寝こけてもらって怒られるのはおれだからねい」
つくづく口の減らない奴だな、と言ってやるとお互い様だよいとマルコが目を細めて笑った。
[3回]
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