その日の夜はとてもご機嫌で、風呂上りに缶ビールと煙草、灰皿を手に屋上に上った。大家はサッチの事がお気に入りらしく、普通ならば大抵立ち入り禁止であるその場所へ行く事をこっそり行くならと許可してくれた。口元に手をあてて笑う大家の笑い声は正直をほほほにしか聞こえないが、まぁ気のいいおばはんなのでよしとする。
四階建てのアパートの四階に住んでいる自分はこっそりと屋上へいくことも簡単だった。草履をひっかけて屋上までの階段を上り、普段は鍵を閉められている扉をこれまたこっそり貰った合鍵で開けると、そこへ足を踏み出した。
屋上は平なところと屋根になっているところがあって、いつも通り平らなところの周囲をぐるりと囲っている手すりに缶ビールと灰皿を置く。咥えた煙草にジッポをカキンと鳴らして火をつけた。独特の香りが漂う。手すりに両腕をのせて、煙草の煙を吐き出した。
煙がふわぁ、と空気に紛れて消えてゆく。煙越しに見えた夜空が綺麗だ。星が遠くで瞬いて見えるのは地球の大気のせいらしいが、大気は光まで捻じ曲げるのだろうか、などとどうでもいいことを考えながら空を見上げる。
そういえば、自分を介抱してくれたあの男に礼をすると言ったきりあれから会ってないなぁとふと思う。だいたい、あの男の事を思い出すと同時にやらかしてしまった自分への自己嫌悪も一緒に浮かんでくるのでなるべく避けていたのだが。あぁ困った。
ガシガシと頭を掻きながら、明日の夜あたりにでも事実の確認をしに行って、謝ろうと決め、煙草の煙を空に向って吐き出した。缶ビールのプルタブをぶしゅ、と持ち上げて一口含む。ビール特有の苦さと炭酸のようなしゅわしゅわとした感じが口の中に広がる。
最近、本当に色々な人に出会うなぁとぼんやりと思う。エースが来てから、富にそれが多くなった。普通、その場のノリで会話しただけの人ならば、幾日も立たずに記憶の彼方に埋もれてしまっているだろうに、なぜか全ての人々が脳裏にくっきりと残っている。
どうしてか、なんて疑問に思わずとも理由は明白だった。最近会った人は、エースも含めて皆自分のことを会った事がある、または知っている人間として扱っているからだ。こちらが知らないのに相手は知っているという事態が正直気に入らない。自分は有名人でもなんでもない、ただの料理屋のおやじなのに。
「あー、もう、」
「何か悩んでんのかい」
「そうなんだよちょっと聞いてくれよ、最近さぁ、」
そこまで言ってから何かがおかしいと首をひねり、次いでその場には自分以外いるはずがないことに気付いて、思わず振り返った。背後には同じように煙草に火をつけながら歩いてくる特徴的すぎる髪型の男。嘘だろ、こんなときに限って出会っちゃうのかよと思わず天を仰ぎたくなる。
「…あんたも大家のお気に入り?」
「そうだよい」
「あのばばあ…」
思わず座り込んでうな垂れていると、男はサッチの隣に来て灰皿借りるよいといって灰をそこに落とした。Tシャツから覗く首筋にちらりと目をやる。当然あれから何日も経っているのだ、綺麗に消えていた。その事に安堵しつつ、サッチは口を開く。
「…その、こないだは悪かったな」
「何の事だい」
「あー、もういいや忘れてください」
変な奴、と男は笑った。男が吸っているのは赤マルだろうか、独特のすえたような香りが漂っている。っていうか、変なのはあんたの髪形だろうがと喉まで出かかったが何とか飲み込むことに成功した。さらに誤魔化すようにビールを飲む。
「…まぁ、部屋に担ぎ込んだ時に女と間違えられたのか知らねぇが、首筋にキスされたときはマジでどうしようかと思ったけどねい」
「?!」
「なんだ、男相手に一発やったと思って凹んでたのかよい」
思わず含んだビールを吹き出して顔を男にむけると、男はそう言ってにやにやと笑った。いや、まさにその通りでぐうの音もでねぇよホント。溜息が口元から漏れるように出て行くのを抑えられないでいると再び頭上から笑い声が降ってくる。ほんとに面白い奴だよい。
何故だろう、この男とはまだ会ったばかりに等しいのにこんなにもすんなりと打ち解けてしまっている自分がいる。こんなに気を許したことは無いのではないかと思うほどだ。学生時代の自分だったら絶対に無かったであろう安らぎが、こんなところに落ちていましたという状態だ。
「なんだろうな…」
「?」
「アンタ、俺のこと知ってる?」
「エントランスで酔っ払って寝てた同じアパートの奴だろい」
ですよねー。確かにそうですよ、俺は酔っ払ってポケットの金全部すられてエントランスで転がってたアホですよ知ってます。自虐みたいなものが頭の中で運動会をしているが、しかしサッチは溜息一つで全てを振り払って立ち上がった。既に燃え尽きていた煙草を灰皿に放り込み、新しいものを取り出す。
「サッチだ」
「?」
「お前、名前は?」
目をすっ、と細めて特徴的な髪型をした男は答えた。マルコだ、と。いい名前だな、と言ってやるとマルコはまるで女を口説く時みたいな台詞みてぇで寒気がするよいと笑って言う。自分も言ってからそう思ったのでくしゃりと笑った。
「こないだの侘びだ、うちの店で今度飯食わせてやるよ」
「へぇ、あんた料理屋やってんのかい」
「メニューはその日の材料次第の多国籍っていうか適当料理だがな」
そいつは楽しみだ、とマルコは目を細めて笑った。
[3回]
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