視界に映ったのは、背筋が震えるほど果てなく広がる、空の青。底しれぬ闇を擁する海の青。一羽の鴎がどこまでも広がる空を横切っていく。 その景色は、知らないはずなのに何処か懐かしく、愛おしい、しかし狂おしい程に憧れたものだった。
気が付いてみれば自分はいつも通りに、目覚まし時計に手を伸ばして気持ち良くすぱぁんと止めていた。何か凄く大切な夢を見たはずだったが、起床と共にその内容は霞んで見えなくなってしまう。
でも、一つだけ浮かんできたことがある。還りたい。何を指して還りたいのかさっぱりだが。やっぱあれか、実家に帰れっていう先祖からの御達示なのかねぇ…。と洗面台でまとまらない髪と格闘しながら考える。
朝一からは市場に行って魚を仕入れる。競りでは周りにまけじと声を張り上げ、狙った獲物を取り損なわなぬ様奮闘する。
自分はこの競り場の空気が酷く好きだった。荒々しく獲物を抱えるおっさんや魚の脂具合をみる専門、競りの中心でもあるそれぞれの意思と企みが交錯する。お祭り好きなのだろう、血が騒ぐのだ。
競りが終わって、獲物を嬉しそうに抱えてかえったらすぐ、自分の店で仕込みを始める。 少し前に飲みの席で髪を無理矢理切られたおかげでぱらぱらと眼前におちてくる前髪をちょいちょいとピンでとめていると、まだ開店もしていないのにドアがあいた。
「ようお疲れおっさん」
「店長と呼びやがれクソガキ」
青年はサンジという。この店でバイトをしているが、実は五つ星レストランの御曹司である。そのお坊ちゃんがなぜこんなとこにいるかというと。
「堅苦しい料理なんか食って何が旨い」
とのこと。なんとも反骨精神旺盛である。料理学校に通いながらこっちでも働いているので、サンジは正直一日中料理と付き合っている。まぁ、うちは多国籍料理なのでサンジの実家とはなかなか反りが合わないので、なるべく実家での料理に変な癖がつかないようにこちらも気を使っている。
まぁサンジのことはどうでもいいのだ。たまに友達らしい奴らがうちに来ては散々サンジをからかいながら飯を食っていくのだから。毎回来るメンツは違うが。
今日は先輩が来るんだよなぁ、とサンジがポロリとこぼした。
「先輩だぁ?」
「高校の頃の先輩だよ、きっとおっさんも気に入るって」
煙草を吹かしてきたらしい臭いを纏わり付かせながら、サンジが着替えに奥へ引っ込む。 なんだかなぁと考えながらも大量に仕込んだ鯖を鍋にちょいちょいと放り込んで煮立てる。
あと一時間くらいで開店だ。サンジには掃除を頼むと言っておいた。すぐに返事がして、雑巾と掃除道具を持って現れると、まずこあがりのテーブルから始める。
「んで、その先輩ってのは…」
「あれ、俺話したことなかったっけ?」
掃除をしながらサッチに応じたサンジは片方しか見えぬ眉をひょいとあげてこちらをみる。
言われてみればそんな話を聞いたことがあったようななかったような。如何せん相手の話を聞き流しながら相槌をうつスキルだけはやたら高いのでなかなか頭に残らない。 それを知ってか、苦笑しながらまぁ本人が来たら紹介するよと言った。
そしてそこで会話を終了したつもりなのか、鼻唄をうたいながら作業を続けている。
最近リリースされた歌には少しばかり疎いのだが、奴が歌っていたのは古い歌だ。イギリスの喜劇王が作曲したもので、常に微笑んでいれば前に進める、という内容だったと記憶する。確か何年も前にドラマのエンディングでも流れていたなぁ、と意識の隅で考えながらしかし、作業の手を止めない。
笑え。
その言葉をふいに思い出して、心臓が大きく鼓動したのを感じる。 誰に言ったのかもすら解らないが、確かにそれは自分が誰かに向けて言った言葉であることは知っていた。 そう、知っていたのである。
「…店長?」
不意にかけられた言葉にびくり、と肩を反応させてサッチはサンジを見た。ぐる眉は心配そうな視線をこちらに向けている。
「女旱でついに飛んだかおっさん」
全くもって大きなお世話である。
思わず怒鳴ろうとしたのだが、ふと目に入った時計に目を剥いた。やっべぇもう開店じゃねぇか!
慌てて開店作業に追われた二人であった。
深夜。
やっと客足も遠退きかけた時間。そろそろ閉店の準備でもするかと、先にサンジをあがらせようとした。
カランカラン。
「あ、もう閉店ですか?」
人のいい笑顔を全開にして入って来た青年は賄いを食おうとしているサンジを見つける。
「よう!」
「先輩遅すぎ」
煙草を吹かしながらサンジは文句を言う。サッチは使い切った食材の後片付けを始めていたが、その様子を見て戸口に突っ立っている青年にサンジの先輩か、座んな、と言いながらカウンターのサンジの横を顎で示す。
「賄いしか残ってねぇが、食ってくかい」
「え、いいの?!」
目が輝いた青年を呆れた面で見遣りながら、おっさんこの人な、兄弟揃ってアホほど食うぞ、と耳打ちしてきた。 とりあえず今日は和風の料理ばかりだったので兜煮と味噌汁、もつ煮と白飯を出してやった。
「うわっ、旨そう!」
顔中でそれを表しながらいただきます!と叫んだ直後には半分以上減っていた。
「そういや名前聞いてなかったな」
「エースだよ」
サンジが呆れながら答える。彼の煙草は既に三本目だった。
「へぇ、いい名前だな」
そしてその食いっぷりを気に入ったのか、サッチは生ビールを提供してやる。今日くらいはいいだろうと豪快なもんだ。 酒にはあまり強くないのか、直ぐに目元を赤くしたエースは気持ち良さそうに笑っている。呑気に歌まで歌いだす始末だ。サンジはそれに慣れているのか、エースの飲み残しを掠め取って飲んでいる。
「ヨホホホ~」
片付けをしながら聞いていると、耳慣れない、でも何か懐かしい歌が聞こえて来る。大鍋を洗いながらその歌を知らず口ずさむ自分に気が付いてサッチは思わず苦笑した。 洗浄機に鍋を突っ込んでスイッチを押しながら、サンジに声をかける。
「茶碗は盥につけとけ、俺が洗っとくからよ」
「お、すまないなおっさん」
だから店長と呼べと。もういいか、おっさんだし。いい加減諦めたサッチはほれはやくエース連れて帰れとサンジに手でジェスチャーした。
エースはまだ楽しげに歌っていたが、こちらを見て言った。サッチの飯っていつ食っても美味いもんなぁ!
「頭飛びすぎだろ先輩、帰るぞ」
ズルズルと引きずられるエースは、サッチまたなぁ、と手を大きく振る。何気なくその目を見た瞬間、気づかなくていいことに気が付いてしまう。 その黒い瞳は、酔った楽しさなどでなくて、何か懐かしむようなそれであったことに。
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