ちりん。
店頭の鈴が来客を告げる。花棚にむかっていたビスタはくるりと振り返り、客に向って愛想よく笑う。
「いらっしゃいませ」
来客するのは大半が女性だ。いつもビスタの顔を見に来るのがむしろ目的である女性も少なくない。
彼女達は皆花を求めに来ると同時に安らぎとときめきを求めにくる。ビスタの行動がこうしてリピーター
を増やしていると言っても過言ではないだろう。
黒くうねる長い髪を後ろで一まとめにして、黒いエプロンをかけて、自慢の男爵髭をなびかせなが
らビスタは毎日開店する。やってくるその女性ひとりひとりの名を覚え、その日によって彼女達に
合う花を提供する。
すこし元気がなさそうならば、可愛らしい花束にリラックス効果のあるものをまぜたり、晴れやか
な顔で来ているならばとても美しい花達が可憐に踊る花束を作って差し上げる。時間がかかりそ
うならば、小さなテーブルに紅茶を用意して待っていてもらうのである。
「今日はこの花など如何ですか?」
花に対する知識は勿論、肌の美容に使えるもの、植物の育て方、様々多岐にわたり、彼女達を楽し
ませる。既婚者も中にはいるだろうに、花をつつむビスタの姿をうっとりと見つめるものが少なくない。
その視線には慣れたものなのだが、触ってこようとすらするお人がいることには辟易せざるをえない
のだ。手を出す人は、ただ一人。ひろしという女性だった。
「…こんにちは」
「いらっしゃ・・・今日も来たんですかお嬢さん」
少し諦めたような表情で笑うビスタをじっと見上げる。ひろしはもう、毎日といっても過言ではないほど
この店に通いつめていたのである。それこそ、名前はおろか、顔、癖、なんでも覚えられてしまうほど
に。
ひろしの胸中では嫌われてしまうのではないか、という不安などこれっぽっちも見当たらなかった。
どこをひっくり返してもビスタとどうしても仲良くなりたい、っていうか触りたい!という願望しかでてこな
い。少しくらいは遠慮を覚えなければ愛しい人をゲットなんてできないわよ、と友達にもアドバイスされ
ていたというのにそんな事はとっくの昔に記憶の彼方だ。
「あの、ビスタさん」
「まぁまぁ、今日は紅茶でも飲んで」
かちゃ、と小さなテーブルに紅茶を入れたカップを置いて、ビスタは小さく溜息をついた。最初のうち
はただ店から離れたところからじっとこちらを見つめていたから、何かほしい花があるのかと問いか
けた。今はあちらもこちらも顔や名前まで知った仲・・・というか、ここまで通いつめてくるとは思わな
かったので、若干引き気味である。
このちょっと変わった行動さえなければひろしという女性はとても素敵な人なのになぁと思う自分がい
る事は否定できない。ひろしは端目から見ればとても美しいし、笑えばとても可愛らしい。なのに自分
の腕やら背中やら、事ある毎に触れてくるのは如何なものか。全く、恋人同士でもあるまいに。
そう思った瞬間何か逆に自分の首を絞めた気がして無駄に動揺したのか、作業台の上にある花の
茎を一本ぱちん、と切ってしまった。あぁ、とかすかな声が聞こえてきたので顔を上げると、ひろしが
とても悲しそうな顔をしているのにぶちあたる。
切られてしまった花を、これもくださいなと呟いたひろしは、その一輪をとても愛おしそうに持ち上げて、
テーブルへと戻っていった。その一連の動作を、ビスタは微動だにできずに目で追っていた。後ろで
まとめていた髪がはらり、と前に垂れてきていた。
今のは一体なんだったのだろう。
ビスタは自身の中に一瞬だけ駆け巡ったものを理解できなかった。いや、したくなかった。花をとって
切なげに見やったひろしの表情があまりにも、あまりにも。
「あの、今日はこれで失礼しますね・・・」
ひろしの声に気付くには少し遅かった。ふと自分の世界から戻ると、ひろしの姿はすでにそこにはな
かったのである。毎日軽く二、三時間は居座る彼女が、今日は一体どうしたというのだろう。何か不
安がよぎるが、まぁこれからはお触りも少なくなるかもしれないと踏んで、小さく笑った。
しかし、それからまるまる一月以上、彼女は来なかったのである。
いつも彼女がくるであろうという時間を想定して紅茶を用意していた自分に気がつく。来客があると彼
女だろうと口元に諦めた笑顔を貼り付けるのが癖になっていた自分に気がつく。自分の中の気持ち
に今更気がついた様で、しかし彼女と自分は親と子ほど年齢が離れているわけで。
皮肉なことに、ひろしが店に来なかった時間がビスタに自分の中の意志を確かめるきっかけとなった。
それからほどなくした早朝のことである。今日も一日頑張らないと、と外の掃き掃除をしながら背を伸
ばしていると、ぱっぱーと小さくならしたクラクションと同時に声がかかる。
「ビスター?」
「ん、あぁ・・・アトモス」
今日も水牛運輸のアトモスが花を運んでくる。花は予め自分が見に行って仕入れているものだから、
品質は保証できるはずだ。アトモスが花の入ったバケツを下ろすのを手伝ってから、奴に茶をくれて
やるのが習慣だ。湯のみから玄米茶を飲みながらアトモスが不思議そうに顔を傾げる。
「お前最近、なんか元気なくないか?」
「いや、そうかな?」
ふふ、と笑って見せて、そこまで顔にでているのかと少し焦る。一ヶ月も店に顔を出さないひろしの
身に何かあったのでは、と心配を始めた所だったのだ。アトモスはなおも首を傾げる。何時もはお前、
あの困ったお嬢さんの愚痴を俺に言うだろうに。
いや、あの、まったく核心を無意識につくのやめてもらえないかなアトモス。心のなかで突っ込みを
入れつつ、ビスタは優雅に笑う。あのお嬢さんもやっと私を諦めてくださったようだよ。その様子を見
てアトモスは煎餅をばりばり齧りながら、まぁお前がそういうならいいんだけどよ、と何か納得いかな
い顔で呟いた。
「お、時間だ」
「早くいかないとオヤジにどやされるぞ」
「違いない」
がははと笑いながらアトモスは花屋を後にした。
はぁ、と溜息をついて、開店準備を続けていた。今日は予約が三つ。そのうち二つは事前に籠を作成
して冷蔵庫に入れてある。一つは目の前で作ってほしいと代わった要望があったのだ。
全く変わった客もいるもんだ、と訝しみながらどんな籠を作ろうか、と花棚と冷蔵庫を見渡す。可憐
な花達はそれぞれが涼やかに、楽しげに花開いている。皆元気だ、と自嘲して笑った。
「・・・あの、まだ開店してない様だけど、よろしいでかしら」
「?」
妙に聞きなれた、しかしその言葉遣いに違和感を感じて振り返った先にいたのは。
ひろしだった。一月前までは、なんというか若い子がすきそうな流行の服をまとって、化粧もこれで
もかという勢いで盛っていた彼女の様子が、なんというか、全く変わっていた。
深窓のご令嬢も裸足で逃げ出すような、清楚な女性がそこに立っていた。ひろしか、あれがほんと
にひろしか?自分の中で混乱しまくっているビスタ自身、あっけにとられて眼が点状態であった。
「・・・お久しぶりです、ビスタさん」
丁寧にお辞儀をして、彼女はビスタへと近づいてきた。一挙一動に眼が離せない。目の前まで歩
いてきた彼女はにこりと笑った。今まで本当に失礼してしまって、すみませんでした。その目が、
心の底から笑っているわけではないことを瞬時に察したビスタは、とりあえずかけなさい、と言葉
をようよう吐き出した。
紅茶の準備をする。自分が飲む分だけでなく、二人分。もう一ヶ月のあいだ毎日作ってきた分量。
なれきっているにも程がある。その事に眉を顰めつつ、しかし確実に三分でカップに注いだ紅茶と
暖めたミルクをもってテーブルへ引き返す。
おとなしく其処に座っていた彼女は、しかしじっとビスタを見つめる視線のみ変わっていなかった。
その事に安堵しながらビスタは笑いかけながら、どうぞ、と一言つけくわえてティーカップを差し
出す。
「・・・一ヶ月ぶりですね、ひろしさん」
「そうですね・・・」
「貴女の身に何かあったのでは、と心配しましたよ」
「ふふ、お上手ですね」
くすくすと笑ってひろしはカップに手をつける。以前はズズズズズと音を立てて飲んでいたが、
今日は全くおしとやかに飲んでいる。しかし前のような、心底おいしい、という表情を見せなかった。
「今日は一体どうしたのです、ひろしさん」
随分と、様変わりなさったようだが。ビスタの言葉で二人の会話は途切れる。柔らかい朝日が店
内を照らしだす。彫の深いビスタの顔を日光がうっすらと照らし、影が浮き出る。
なにか迷う様に視線を室内へ巡らせていたひろしは、やがて意を決したように言った。私、信じて
貰えないかも知れないけれど。
「・・・ひろしさん」
遮るようにビスタの声。ビスタの目はとても優しい光を湛えている。微笑んだ顔はやがて、ひろし
の想いもよらない言葉を吐き出す。
「そこから先は私に、言わせてもらえまいか」
さて、出歯亀はここらにしておこう。後は二人の時間である。
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