元和偃武よりこっち、サムライなんざ流行らねぇ。そう皮肉な
笑みを湛え言った男は今、十年会っていなかった戦友と共に庭の
蛍を見つめていた。コマチを始め、カンベエ以外の仲間はつかの
間の休息を喜び、この数日で彼らの身に起こった様々な事件で疲
れている身体を休めている。
ユキノといつも蛍を見ていた。交尾の為に己の発光細胞を懸命
に光らせて雌を呼ぶ。雌は腹の一部を光らせ雄に応える。たった
二、三週間の命の間に交尾をして、己たちは力尽きていく彼らに、
シチロージはサムライを重ねていたのである。命をかけて戦う為
に生まれたような生き物、それが大戦の時代におけるサムライで
あったからだ。
アヤマロがサムライ狩りを始めたと聞いたのは僅か二日前。上
層界から遊びに来る裕福な商人達がそう言っていたのを耳にした
のだ。サムライが捕まってしまうと仕事が捗らなくて困る。彼ら
はアヤマロに表面上で従うだけなのだから裏では何とでも言える。
一体なんの縁か、その前後には女の子が上層界で飛び降り自殺
を図っただの、物凄い芸を疲労する一座がいるだの、工事現場の
一部が破壊されるだの、番屋からサムライ狩りにあった者達が一
斉に脱走しただの、昇降列車が落っこちた、だの不思議な事件ば
かりが起きていた。
そして彼は出会ってしまったのである。目が覚めて五年、見続
けていた夢に幕を下ろす人物に。
三味線を爪弾きながら、都々逸を即興で唄う。三千世界の野伏
せり斬って。斬って斬られて、斬られ損。
侍である自分を、そこから抜け出せぬ自分をあざ笑う歌をうた
っていたがその心は決まっていた。この人とは斬っても切れぬ縁。
道は繋がるものなのだと確信してしまった己が憎い。
ユキノに恩を返しきれたわけじゃない。でも己はやっぱり何処
をひっくり返してみても侍なのだ、と皮肉に思うシチロージなの
であった。
唄う!
夜半。人が大勢集まる気配にシズクは目が覚めた。追われる立
場となるのは久しぶりだが、当時の癖が再発したらしく眠りは浅
かった。
(やっぱり、染み付いちまったものはなかなか抜けないねぇ)
苦笑しながら積み重なった布団から抜け出し、障子までずるず
ると四つんばいで這いより、口に含み唾液で濡らした人差し指を
ぶすりと紙に突き刺す。紙が軟くなってできた小さな穴から外の
気配を伺う。
突然、中庭を横切ったどでかい赤い塊があった。己の目が確か
ならばあの頭はキクチヨという機械のサムライであったはず。更
に目を凝らしていると、彼を追うように幾人かのカムロがばたば
たと廊下を走り抜けていく。その手にはカムロの使う槍が。
何が起きたか知らないが、ここに居る限り己にも累が及ぶ事は
間違いない。背を屈めたまま音を立てずに障子を微かに開けた。
と、途端に目に入ったのは青く長いサラサラストレート。ウキョ
ウが通り過ぎたのだ。
(何だってあいつがここにいるんだぃ、こっちまであぶねぇや)
慌ててもう一度障子を閉め、そのまま布団の陰に戻り息を殺し
気配も殺す。ここで見つかるならばそ知らぬ顔で頭を抱えてうず
くまり、お助けをぉ、お助けぇとか何とか言っていればなんとか
なるだろう。打算的に思考をまとめ、シズクはそのまま外の様子
に聞き耳をたてる。
やがてどたばたと人の室内で暴れる音がして、廊下を沢山の足
音が駆け抜けていく。かむろもこんな時間にご苦労さんなこった
な、と思わず同情した。
ばたん、ばたんと大きな音がする。まるで大きな板か何かを叩
くようなそれに、畳替えしだと思い至るにはそれほど時間を要さ
なかった。いつだったか自分もふざけてやっていて、父親に畳の
い草が痛むだろうが、と怒られた事がある。
ふと昔を顧みている自分に気付き、おぉ、これって年寄りの仲
間入りの証じゃないのか、まだまだ私は若いはずなのに、おかし
いなぁ、とブツブツ小声で独り言を言ったが誰も返事や突っ込み
をくれるわけでもなく。
と、廊下をこちらにずんずんと歩いてくる気配がする。この歩
き方はもしかしなくともサムライだ。張り巡らされた板を軋ませ
ずに歩く事ができて、尚且つ気配を殺せるものなど凡人にはそう
いない。サムライの中でもかなりの手練れだろう。思いつくのは
三人。今見つかるのは非常にまずい。
咄嗟に障子の側から離れ、どこか隠れるところ、と周囲をきょ
ろきょろした挙句に目に入った押入れへ近づく。音がたたぬよう
に開け、荷物共々飛び込む。その際僅かに膝小僧を擦り剥いてピ
リリとした痛みが足元を駆け抜ける。眉を顰めただけでその痛み
をやり過ごした。この四年間で培った“看板娘”の彼女ならば多
少の悲鳴を上げていただろう。
だがシズクは今、追われる立場である。そのことが己を過去に
立ち返らせていた。
「キララ君が消えちゃった…」
「若、いかがしましょう。此処から水路に下ったとなれば行き先
は式杜人の住みかを通過することになりま」
「当然、追いかけるよ…何してるの、早く船を用意してよ」
「し、承知」
サムライ達の予想外な行動で、狙っていた女の子に逃げられた。
おかげでウキョウは随分と機嫌を悪くしている。無理も無い、逃
げられるのは今年に入ってもう三度目だ。一度目はキララ、二度
目はシズク、三度目は今しがた畳の向こうに消えた、言うまでも
無いキララ。
つまらない。アヤマロの義子になって今まで、この手に入らぬ
者など無かったのに。化粧をした顔の眉間に、薄っすらと皺がよ
った。それに自分で直ぐに気が付き、手袋を脱いでぐりぐりと眉
間を押して無理矢理治す。
ついでとばかりに蛍屋の他の部屋を粗捜ししてサムライを見つ
けようとしているカムロやキュウゾウ、ヒョーゴを見ながらウキ
ョウは部屋に散らばる布団の数を数える。
「一、二、三、四、五、六、七……さっきみた時の方が数が多か
ったよねぇ…」
顎に指を当ててはて、と思ったが考える間もなくテッサイが船
の用意が完了したと伝えに来たので思考を途中で打ち切って優雅
な仕草でテッサイの後をついてゆく。
ヒョーゴもキュウゾウも来なよ。声を掛けて歩き行く姿にかむ
ろ達はかすかに瞠目する。声音が硬かったのだ、あのどんな時も
軟い声を変えようとしなかったウキョウが。
彼は恐れていたのだ。この癒しの里の空気に。嘗ての己の姿を
投影して。もう二度とあんなことはしたくないと心の底から怯え
ていたのである。
―――陰間など。
キュウゾウは声がかかったので覗いていた部屋を後にする。障
子に内側から小さな穴が開いていたので気になったのだが、今更
命令に逆らえばヒョーゴがまた煩い。面倒ごとはごめんだった。
(…行った…かな…)
押入れで息を殺して気配を伺っていたが、どこからかくぐもっ
た話し声が聞こえるのに驚く。見れば足元の板の継ぎ目に小さな
隙間があって、そこから水音も一緒に聞こえてくる。
下にはどうやら庭に流れ込む水の水路があるらしい。いざとな
ればそこからこの廓を抜け出すことは可能だろうと考えながらそ
の会話に耳を傾けようとする。
だが、聞こえてきたのは驚いたことにユキノの悲しそうな声だ
った。野伏せりに、殺られちまえばいいんだ…。それから水を押
し分け進む音。舟だろうか。
野伏せり、舟の水音、彼女がそこにいるのは誰かを見送ったと
言うことだろう。そして見送ると言う形で逃がした者達とは。脳
裏に、人のいい壮年の侍が浮かぶ。
(ゴロさんが、ここにいたというのか)
せめて顔だけでも拝んでおきたかった。彼の仲間は如何したの
だろうか。あの、素敵な音をシズクに提供してくれた一座の仲間
達は。残念に思ったがそれだけだ。彼らも追われる立場ならば、
一緒にいるとこちらにまでとばっちりがくる。
こちらに不都合な事は切り捨てておきたい。冷静に事の判断を
下して、彼女は押入れの襖を開く。障子は開いていた。おやおや、
ばっちりこの穴を見つけられたということか。さすがサムライ、
目敏いねぇ。
変なことに感心しながらシズクはもう一度浅い眠りにおちた。
やがてこういう日がくるのは心のうちでわかっていた。彼はこ
の蛍屋で楽しそうに太鼓持ちとして働いていたが、その目は口は
いつも皮肉気で、そして遠い所をみるような目つきで蛍を見てい
た。
サムライは中仕切りだぁな。そう言ったのはどこの口だい、言
葉に出して攻めてやりたかった。引き止めたかった。でもシチロ
ージを止める資格などユキノには無いのだ。
サムライとして生きてきた男に、生死の境を共にくぐりぬけた
友と会ってしまったあの男に、自分は薄らぼんやりとしか映って
いないのだ、と思い知らされたのである。
懐に瓢箪の飾りのついた簪がある。それを握って彼女は涙した。
あの女の商人の言った通りになってしまった。だが物語の結末は
その通りとはいかないだろう。だって彼はサムライなのだから。
だが自分はこの料亭蛍屋の女将、こんなことでめそめそしてい
る場合ではい。きっとウキョウ達に尋問されるだろう。その前に
使用人の皆には大丈夫だと声を掛けておかなければ。
涙を懐紙で急いで拭い、彼女はその場を後にした。
四半刻もたたぬうちにまたも目がさめた。あぁやっぱり眠れな
かったか、と苦笑しながら彼女は部屋から抜け出す。右手には三
味線を持って僅かに明るくなった空を見ながら廊下に出た。蛍は
まだ緩やかに弧を描いて飛んでいる。
木箱に入っていたうちの一つに煙管があった。こりゃいい、と
持ち出し火をつける。小さな携帯灰皿も入っていたので傍らにお
いて煙を吸い込み、やがて輪っかをぽやんぽやんと吐き出してい
く。
不意に調理場の方から声が聞こえる。もう戻ってきたのか、テ
ッサイの声だ。ウキョウはまだ此処にいるのだろうか、いたらい
たで五月蝿いから面倒だなぁと煙を吐き出しながら考えた。
足音も粗々に、幾人もの人が建物から去っていく音がする。尋
問しているらしいテッサイの声はまだ聞こえていた。このままで
はユキノさんに累が及んでしまう。キヘエさんの二の舞にはさせ
たくない一心で彼女はことん、と灰皿に火を落とし、三味線を手
に調理場へ足を向けた。
「なぜ奴等を逃がした。逃亡幇助で番所行きにしてやる」
「やってごらんなさい」
言い合う声は段々とエスカレートしているのを、弥助は確かに
聞いていた。ただただ恐ろしくてがたがた震えていたのをユキノ
に大丈夫だと励まされて、土間の隅で仲間と小さくなっていたの
だ。このままでは女将が連れて行かれてしまう。あんなに気をか
けて貰った女将だ、なんとかしたい。でも、彼には手も足も出せ
なかった。
そこに割っていった三味線の音。
「死んで別れる、辛さより、生きて別れる、この辛さ…お侍様、
ここは身分もへったくれもありはしない癒しの里、ここで拿捕
なんぞ無粋なことはなしにしておくんなさい」
「おまっ、何でここにいる! 」
「ちょいと廂を借りただけでさぁ…私の顔に免じてここはお一
つ」
「……貸し二つだからな」
「あい、あい」
またどこかであったら私が奢りますんで、飲みましょう。シ
ズクは背をむけるテッサイに声を掛けた。うっさい、さっさと
ここを出ろと言ったのに。肩をすくめた背中はそう語っていた。
「アンタ…おかげで助かったよ」
「いやいや、廂を借りてしまって申し訳ないばっかりで」
「さっきの用心棒とは顔見知りかい」
「いやぁ、恩があるっちゃあるんだが、あちらさんが無粋な真
似をなさったのが発端なんでね」
片眉をあげてユキノに笑いかけたシズクは、ついでに一言頼
んでみる。私も訳あってウキョウに追われる身。ちょいとほと
ぼりが冷めるまでここに身を隠してもいいですかい。
その口調があまりにもシチロージに似ていて、ユキノはくす
りと笑いながら頷いた。さっきも似たような人を送り出した所
さ、この“拾い屋”ユキノ、任されようじゃあないか。
それからのユキノは元気だった。またしても代官ごっこよろ
しく薄汚い旅人装束をひん剥いて、木箱とともに押入れへ入れ
てしまうわ、他の芸妓に言って色とりどりの着物を持ってこさ
せるわ、簪は何にしよう、やれこの頬紅なら似合うんじゃない
か、これだけ髪が長いと自髪で割れ桃が結えるわねぇ。
「ちょっと待った、あたしは十代じゃありやせんよ」
「その顔なら十代でもイケるわよ、安心なさいな」
「いやいや安心してる場合じゃないからぁぁぁぁ」
踊りを舞うのは嫌なので、地方に入れてもらって骸骨方と一
緒に曲を奏で長唄を歌う。黒髪、十六夜、様々に。かむろの姿
を見なくなるまでの五日間は、まさに怒涛といっても過言では
なかった。
「ユキノ、あの娘はだれだい」
「あい、知り合いから行儀見習いがてら預けられたんですぇ」
「なかなかいい素材やなぁ」
「うっとこは春はひさぎません、わかってはりますやろぅ」
そんな会話も二日聞くと聞き飽きる。阿呆かあのおっさん、
鼻の下が伸びすぎてゴリラみたいに見えるけど私の気のせいで
すか、そうですか。いやいや私は目だけはまだまだ耄碌してま
せんけれども。
ただ自分は三味線の腕前を上げ続けた五日間であった。
*割れ桃…舞妓の結う髪型。自前の髪で結う。芸妓は鬘をつける。
* 地方…舞う方とは別の、音楽を奏でる・唄う方の芸妓を呼ぶ。
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